心中
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お金《きん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)万年|新造《しんぞ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)髪の※[#「糸+求」、第4水準2−84−28]《ちぢ》れた
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お金《きん》がどの客にも一度はきっとする話であった。どうかして間違って二度話し掛けて、その客に「ひゅうひゅうと云うのだろう」なんぞと、先《せん》を越して云われようものなら、お金の悔やしがりようは一通りではない。なぜと云うに、あの女は一度来た客を忘れると云うことはないと云って、ひどく自分の記憶を恃《たの》んでいたからである。
それを客の方から頼んで二度話して貰ったものは、恐らくは僕一人であろう。それは好く聞いて覚えて置いて、いつか書こうと思ったからである。
お金はあの頃いくつ位だったかしら。「おばさん、今晩は」なんと云うと、「まあ、あんまり可哀そうじゃありませんか」と真面目に云って、救を求めるように一座を見渡したものだ。「おい、万年|新造《しんぞ》」と云うと、「でも新造だけは難有《ありがた》いわねえ」と云って、心《しん》から嬉しいのを隠し切れなかったようである。とにかく三十は慥《たし》かに越していた。
僕は思い出しても可笑《おか》しくなる。お金は妙な癖のある奴だった。妙な癖だとは思いながら、あいつのいないところで、その癖をはっきり思い浮かべて見ようとしても、どうも分からなかった。しかし度々見るうちに、僕はとうとう覚えてしまった。お金を知っている人は沢山あるが、こんな事をはっきり覚えているのは、これも矢っ張僕一人かも知れない。癖と云うのはこうである。
お金は客の前へ出ると、なんだか一寸《ちょっと》坐わっても直ぐに又立たなくてはならないと云うような、落ち着かない坐わりようをする。それが随分長く坐わっている時でもそうである。そしてその客の親疎によって、「あなた大層お見限りで」とか、「どうなすったの、鼬《いたち》の道はひどいわ」とか云いながら、左の手で右の袂《たもと》を撮《つま》んで前に投げ出す。その手を吭《のど》の下に持って行って襟《えり》を直す。直すかと思うと、その手を下へ引くのだが、その引きようが面白い。手が下まで下りて来る途中で、左の乳房を押えるような運動をする。さて下りたかと思うと、その手が直ぐに又上がって、手の甲が上になって、鼻の下を右から左へ横に通り掛かって、途中で留まって、口を掩《おお》うような恰好になる。手をこう云う位置に置いて、いつでも何かしゃべり続けるのである。尤《もっと》も乳房を押えるような運動は、折々右の手ですることもある。その時は押えられるのが右の乳房である。
僕はお金が話したままをそっくりここに書こうと思う。頃日《このごろ》僕の書く物の総ては、神聖なる評論壇が、「上手な落語のようだ」と云う紋切形の一言で褒《ほ》めてくれることになっているが、若《も》し今度も同じマンション・オノレエルを頂戴したら、それをそっくりお金にお祝儀に遣れば好《い》いことになる。
* * *
話は川桝《かわます》と云う料理店での出来事である。但しこの料理店の名は遠慮して、わざと嘘の名を書いたのだから、そのお積りに願いたい。
そこで川桝には、この話のあった頃、女中が十四五人いた。それが二十畳敷の二階に、目刺《めざし》を並べたように寝ることになっていた。まだ七十近い先代の主人が生きていて、隠居|為事《しごと》にと云うわけでもあるまいが、毎朝五時が打つと二階へ上がって来て、寝ている女中の布団を片端《かたっぱし》からまくって歩いた。朝起は勤勉の第一要件である。お爺いさんのする事は至って殊勝なようであるが、女中達は一向敬服していなかった。そればかりではない。女中達はお爺いさんを、蔭で助兵衛爺《すけべえじい》さんと呼んでいた。これはお爺いさんが為めにする所あって布団をまくるのだと思って附けた渾名《あだな》である。そしてそれが全くの寃罪《えんざい》でもなかったらしい。
暮に押し詰まって、毎晩のように忘年会の大一座があって、女中達は目の廻るように忙《せわ》しい頃の事であった。或る晩例の目刺の一|疋《ぴき》になって寝ているお金が、夜なかにふいと目を醒《さ》ました。外の女ならこんな時|手水《ちょうず》にでも起きるのだが、お金は小用の遠い性《たち》で、寒い晩でも十二時過ぎに手水に行って寝ると、夜の明けるまで行かずに済ますのである。お金はぼんやりして、広間の真中に吊るしてある電灯を見ていた。女中達は皆好く寐《ね》ている様子で、所々で歯ぎしりの音
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