がする。
その晩は雪の夜であった。寝る前に手水に行った時には綿をちぎったような、大きい雪が盛んに降って、手水鉢《ちょうずばち》の向うの南天と竹柏《なぎ》の木とにだいぶ積って、竹柏の木の方は飲み過ぎたお客のように、よろけて倒れそうになっていた。お金はまだ降っているかしらと思って、耳を澄まして聞いているが、折々風がごうと鳴って、庭木の枝に積もった雪のなだれ落ちる音らしい音がする外には、只方々の戸がことこと震うように鳴るばかりで、まだ降っているのだか、もう歇《や》んでいるのだか分からない。
暫くすると、お金の右隣に寝ている女中が、むっくり銀杏返《いちょうがえ》しの頭を擡《もた》げて、お金と目を見合わせた。お松と云って、痩《や》せた、色の浅黒い、気丈な女で、年は十九だと云っているが、その頃二十五になっていたお金が、自分より精々二つ位しか若くはないと思っていたと云うのである。
「あら。お金さん。目が醒めているの。わたしだいぶ寐たようだわ。もう何時。」
「そうさね。わたしも目が醒めてから、まだ時計は聞かないが、二時頃だろうと思うわ。」
「そうでしょうねえ。わたし一時間は慥かに寐たようだから。寝る前程寒かないことね。」
「宵のうち寒かったのは、雪が降り出す前だったからだよ。降っている間は寒かないのさ。」
「そうかしら。どれ憚《はばか》りに行って来よう。お金さん附き合わなくって。」
「寒くないと云ったって、矢っ張寝ている方が勝手だわ。」
「友達|甲斐《がい》のない人ね。そんなら為方《しかた》がないから一人で行くわ。」
お松は夜着の中から滑り出て、鬆《ゆる》んだ細帯を締め直しながら、梯子段《はしごだん》の方へ歩き出した。二階の上がり口は長方形の間の、お松やお金の寝ている方角と反対の方角に附いているので、二列に頭を衝き合せて寝ている大勢の間を、お松は通って行かなくてはならない。
お松が電灯の下がっている下の処まで歩いて行ったとき、風がごうと鳴って、だだだあと云う音がした。雪のなだれ落ちた音である。多分庭の真ん中の立石《たていし》の傍《そば》にある大きい松の木の雪が落ちたのだろう。お松は覚えず一寸《ちょっと》立ち留まった。
この時突然お松の立っている処と、上がり口との中途あたりで、「お松さん、待って頂戴、一しょに行くから」と叫ぶように云った女中がある。
そう云う声と共に、むっくり島田髷《しまだまげ》を擡げたのは、新参のお花と云う、色の白い、髪の※[#「糸+求」、第4水準2−84−28]《ちぢ》れた、おかめのような顔の、十六七の娘である。
「来るなら、早くおし。」お松は寝巻の前を掻き合せながら一足進んで、お花の方へ向いた。
「わたしこわいから我慢しようかと思っていたんだけれど、お松さんと一しょなら、矢っ張行った方が好《い》いわ。」こう云いながら、お花は半身起き上がって、ぐずぐずしている。
「早くおしよ。何をしているの。」
「わたし脱いで寝た足袋を穿《は》いているの。」
「じれったいねえ。」お松は足踏をした。
「もう穿けてよ。勘辨して頂戴、ね。」お花はしどけない風をして、お松に附いて梯子を降りて行った。
便所は女中達の寝る二階からは、生憎《あいにく》遠い処にある。梯子を降りてから、長い、狭い廊下を通って行く。その行き留まりにあるのである。廊下の横手には、お客を通す八畳の間が両側に二つずつ並んでいてそのはずれの処と便所との間が、右の方は女竹《めだけ》が二三十本立っている下に、小さい石燈籠《いしどうろう》の据えてある小庭になっていて、左の方に茶室|賽《まが》いの四畳半があるのである。
いつも夜なかに小用に行く女中は、竹のさらさらと摩《す》れ合う音をこわがったり、花崗石《みかげいし》の石燈籠を、白い着物を着た人がしゃがんでいるように見えると云ってこわがったりする。或る時又用を足している間じゅう、四畳半の中で、女の泣いている声がしたので、帰りに障子を開けて見たが、人はいなかったと云ったものがある。これは友達をこわがらせる為めに、造り事を言ったのであるが、その話を聞いてからは、便所の往《ゆ》き返りに、とかく四畳半が気になってならないのである。殊に可笑しいのは、その造り事を言った当人が、それを言ってからは四畳半がこわくなって、とうとう一度は四畳半の中で、本当に泣声がしたように思って、便所の帰りに大声を出して人を呼んだことがあったのである。
* * *
お金は二人が小用に立った跡で、今まで気の附かなかった事に気が附いた。それはお花の空床《あきどこ》の隣が矢張空床になっていることであった。二つ並んで明いているので、目立ったのである。
そして、「ああお蝶さんがまだ寝ていないが、どうしたのだろう」と思った。お花の隣の空床
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