すとも。縄が新しくなると、当分当りどころが違うから、縛《いましめ》を感ぜないのだろうと、僕は思っているのです」
「そんなら寧《むし》ろ消極のままで、懐疑に安住していたらどうでしょう」
「懐疑が安住でしょうか」
 純一は一寸窮した。「安住と云ったのは、矛盾でした。つまり永遠の懐疑です」
「なんだか咀《のろ》われたものとでも云いそうだね」
「いいえ。懐疑と云ったのも当っていません。永遠に求めるのです。永遠の希求です」
「まあ、そんなものでしょう」
 大村の詞はひどく冷澹《れいたん》なようである。しかしその音調や表情に温《あたたか》みが籠《こも》っているので、純一は不快を感ぜない。聖堂の裏の塀のあたりを歩きながら、純一は考え考えこんな事を話し出した。
「さっき倶楽部でもお話をしたようですが、僕はマアテルリンクを大抵読んで見ました。それから同じ学校にいた友達だというので、Verhaeren《フェルハアレン》を読み始めたのです。この間La Multiple Splendeur《ラ ミュルチプル スプランドヨオル》が来たもんですから、それを国から出て来るとき、汽車で読みました。あれには大分纏まった人世観のようなものがあるのですね。妙にこう敬虔《けいけん》なような態度を取っているのですね。まるで日本なんぞで新人だと云っている人達とは違っているもんですから、へんな心持がしました。あなたの云う積極的新人なのでしょう。日本で消極的な事ばかし書いている新人の作を見ますと、縛られた縄を解《ほど》いて行《ゆ》く処に、なる程と思う処がありますが、別に深く引き附けられるような感じはありません。あのフェルハアレンの詩なんぞを見ますと、妙な人生観があるので、それが直ぐにこっちの人生観にはならないのですが、その癖あの敬虔なような調子に引き寄せられてしまうのです。ロダンは友達だそうですが、丁度ロダンの彫刻なんぞも、同じ事だろうと思うのです。そうして見ると、西洋で新人と云われている連中は、皆気息の通《かよ》っている処があって、それが日本の新人とは大分違っているように思うのです。拊石さんのイブセンの話も同じ事です。どうも日本の新人という人達は、拊石の云ったように、小さいのではありますまいか」
「小さいのですとも。あれはClique《クリク》の名なのです」大村は恬然《てんぜん》としてこう云った。
 銘々勝手な事を考えて、二人は本郷の通を歩いた。大村の方では田舎もなかなか馬鹿にはならない、自分の知っている文科の学生の或るものよりは、この独学の青年の方が、眼識も能力も優れていると思うのである。
 大学前から、道幅のまだ広げられない森川町に掛かるとき、大村が突然こう云った。
「君、瀬戸には気を着けて交際し給えよ」
「ええ。分かっています。Boheme[#一つ目の「e」は「`」付き]《ボエエム》ですから」
「うん。それが分かっていれば好《い》いのです」
 近いうちに大村の西片町の下宿を尋ねる約束をして、純一は高等学校の角を曲った。

     九

 十一月二十七日に有楽座でイブセンのJohn Gabriel Borkmann《ジョン ガブリエル ボルクマン》が興行せられた。
 これは時代思潮の上から観《み》れば、重大なる出来事であると、純一は信じているので、自由劇場の発表があるのを待ち兼ねていたように、早速会員になって置いた。これより前に、まだ純一が国にいた頃、シェエクスピイア興行があったこともある。しかしシェエクスピイアやギョオテは、縦《たと》いどんなに旨《うま》く演ぜられたところで、結構には相違ないが、今の青年に痛切な感じを与えることはむずかしかろう。痛切でないばかりではない。事に依ると、あんなクラッシックな、俳諧《はいかい》の用語で言えば、一時流行でなくて千古不易の方に属する作を味う余裕は、青年の多数には無いと云っても好かろう。極端に言えば、若しシェエクスピイアのような作が新しく出たら、これはドラムではない、テアトルだなんぞと云うかも知れない。その韻文をも冗漫だと云うかも知れない。ギョオテもそうである。ファウストが新作として出たら、青年は何と云うだろうか。第二部は勿論《もちろん》であるが、第一部でも、これは象徴ではない、アレゴリイだとも云い兼ねまい。なぜと云うに、近世の写実の強い刺戟《しげき》に慣れた舌には、百年|前《ぜん》の落ち着いた深い趣味は味いにくいからである。そこでその古典的なシェエクスピイアがどう演ぜられたか。当時の新聞雑誌で見れば、ヴェネチアの街が駿河台の屋鋪町《やしきまち》で、オセロは日清戦争時代の将官の肋骨服《ろっこつふく》に、三等勲章を佩《お》びて登場したということである。その舞台や衣裳《いしょう》を想像して見たばかりで、今の青年は侮辱せられるような感じをせずにはいられないのである。
 二十七日の晩に、電車で数寄屋橋《すきやばし》まで行って、有楽座に這入《はい》ると、パルケットの四列目あたりに案内せられた。見物はもうみんな揃《そろ》って、興行主の演説があった跡で、丁度これから第一幕が始まるという時であった。
 東京に始めて出来て、珍らしいものに言い囃《はや》されている、この西洋風の夜の劇場に這入って見ても、種々の本や画《え》で、劇場の事を見ている純一が為めには、別に目を駭《おどろ》かすこともない。
 純一の席の近処は、女客ばかりであった。左に二人並んでいるのは、まだどこかの学校にでも通っていそうな廂髪《ひさしがみ》の令嬢で、一人は縹色《はなだいろ》の袴《はかま》、一人は菫色《すみれいろ》の袴を穿《は》いている。右の方にはコオトを着たままで、その上に毛の厚いskunks《スカンクス》の襟巻をした奥さんがいる。この奥さんの左の椅子が明いていたのである。
 純一が座に着くと、何やら首を聚《あつ》めて話していた令嬢も、右手の奥さんも、一時に顔を振り向けて、純一の方を向いた。縹色のお嬢さんは赤い円顔で、菫色のは白い角張った顔である。その角張った顔が何やらに似ている。西洋人が胡桃《くるみ》を噬《か》み割らせる、恐ろしい口をした人形がある。あれを優しく女らしくしたようである。国へ演説に来たとき、一度見た事のある島田三郎という人に、どこやら似ている。どちらも美しくはない。それと違って、スカンクスの奥さんは凄《すご》いような美人で、鼻は高過ぎる程高く、切目の長い黒目勝《くろめがち》の目に、有り余る媚《こび》がある。誰《たれ》やらの奥さんに、友達を引き合せた跡で、「君、今の目附は誰にでもするのだから、心配し給うな」と云ったという話があるが、まあ、そんな風な目である。真黒い髪が多過ぎ長過ぎるのを、持て余しているというように見える。お嬢さん達はすぐに東西の桟敷を折々きょろきょろ見廻して、前より少し声を低めたばかり、大そうな用事でもあるらしく話し続けている。奥さんは良《や》や久しい間、純一の顔を無遠慮に見ていたのである。
「そら、幕が開《あ》いてよ」と縹のお嬢さんが菫のお嬢さんをつついた。「いやあね。あんまりおしゃべりに実が入《い》って知らないでいたわ」
 桟敷が闇《くら》くなる。さすが会員組織で客を集めただけあって、所々の話声がぱったり止《や》む。舞台では、これまでの日本の芝居で見物の同情を惹《ひ》きそうな理窟《りくつ》を言う、エゴイスチックなボルクマン夫人が、倅《せがれ》の来るのを待っている処へ、倅ではなくて、若かった昔の恋の競争者で、情に脆《もろ》い、じたらくなような事を言う、アルトリュスチックな妹エルラが来て、長い長い対話が始まる。それを聞いているうちに、筋の立った理窟を言う夫人の、強そうで弱みのあるのが、次第に同情を失って、いくじのなさそうな事を言う妹の、弱そうで底力のあるのに、自然と同情が集まって来る。見物は少し勝手が違うのに気が附く。対話には退屈しながら、期待の情に制せられて、息を屏《つ》めて聞いているのである。ちと大き過ぎた二階の足音が、破産した銀行頭取だと分かる所で、こんな影を画くような手段に馴れない見物が、始めて新しい刺戟を受ける。息子の情婦のヴィルトン夫人が出る。息子が出る。感情が次第に激して来る。皆引っ込んだ跡に、ボルクマン夫人が残って、床の上に身を転がして煩悶《はんもん》するところで幕になった。
 見物の席がぱっと明るくなった。
「ボルクマン夫人の転がるのが、さぞ可笑《おか》しかろうと思ったが、存外可笑しかないことね」と菫色が云った。
「ええ。可笑しかなくってよ。とにかく、変っていて面白いわね」と縹色が答えた。
 右の奥さんは、幕になるとすぐ立ったが、間もなく襟巻とコオトなしになって戻って来た。空気が暖《あたたか》になって来たからであろう。鶉縮緬《うずらちりめん》の上着に羽織、金春式唐織《こんぱるしきからおり》の丸帯であるが、純一は只黒ずんだ、立派な羽織を着ていると思って見たのである。それから膝《ひざ》の上に組み合せている指に、殆ど一本一本|指環《ゆびわ》が光っているのに気が着いた。
 奥さんの目は又純一の顔に注がれた。
「あなたは脚本を読んでいらっしゃるのでしょう。次の幕はどんな処でございますの」
 落ち着いた、はっきりした声である。そしてなんとなく金石《きんせき》の響を帯びているように感ぜられる。しかし純一には、声よりは目の閃きが強い印象を与えた。横着らしい笑《えみ》が目の底に潜んでいて、口で言っている詞《ことば》とは、まるで別な表情をしているようである。そう思うと同時に、左の令嬢二人が一斉に自分の方を見たのが分かった。
「こん度の脚本は読みませんが、フランス訳で読んだことがあります。次の幕はあの足音のした二階を見せることになっています」
「おや、あなたフランス学者」奥さんはこう云って、何か思うことあるらしく、にっこり笑った。
 丁度この時幕が開いたので、答うることを須《もち》いない問のような、奥さんの詞は、どういう感情に根ざして発したものか、純一には分からずにしまった。
 舞台では檻《おり》の狼《おおかみ》のボルクマンが、自分にピアノを弾いて聞せてくれる小娘の、小さい心の臓をそっと開けて見て、ここにも早く失意の人の、苦痛の萌芽《ほうが》が籠もっているのを見て、強いて自分の抑鬱不平の心を慰めようとしている。見物は只娘フリイダの、小鳥の囀《さえず》るような、可哀《かわゆ》らしい声を聞いて、浅草公園の菊細工のある処に這入って、紅雀の籠《かご》の前に足を留めた時のような心持になっている。
「まあ、可哀《かわい》いことね」と縹色のお嬢さんの※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、59−6]《ささや》くのが聞えた。
 小鳥のようなフリイダが帰って、親鳥の失敗詩人が来る。それも帰る。そこへ昔命に懸けて愛した男を、冷酷なきょうだいに夫にせられて、不治の病に体のしんに食い込まれているエルラが、燭《しょく》を秉《と》って老いたる恋人の檻に這入って来る。妻になったという優勝の地位の象徴ででもあるように、大きい巾《きれ》を頭に巻き附けた夫人グンヒルドが、扉の外で立聞をして、恐ろしい幻のように、現れて又消える。爪牙《そうが》の鈍った狼のたゆたうのを、大きい愛の力で励まして、エルラはその幻の洞窟《どうくつ》たる階下の室に連れて行《ゆ》こうとすると、幕が下りる。
 又見物の席が明るくなる。ざわざわと、風が林をゆするように、人の話声が聞えて来る。純一は又奥さんの目が自分の方に向いたのを知覚した。
「これからどうなりますの」
「こん度は又二階の下です。もうこん度で、あらかた解決が附いてしまいます」
 奥さんに詞を掛けられてから後《のち》は、純一は左手の令嬢二人に、鋭い観察の対象にせられたように感ずる。令嬢が自分の視野に映じている間は、その令嬢は余所《よそ》を見ているが、正面を向くか、又は少しでも右の方へ向くと、令嬢の視線が矢のように飛んで来て、自分の項《うなじ》に中《あた》るのを感ずる。見ていない所の見える、不愉快な感じである。Y県にいた時の、中学の理
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