闖oし抜けなので、驚いて目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、179−12]《みは》っている婆あさんに送られて、純一は車に乗って新橋へ急がせた。年の暮で、夜も賑やかな銀座を通る時、ふと風炉敷包みの不体裁なのに気が附いて鞆屋《ともえや》に寄って小さい革包を買って、包《つつみ》をそのまま革包に押し込んだ。
 新橋で発車時間を調べて見ると、もう七時五十分発の列車が出た跡で、次は九時発の急行である。国府津《こうづ》に着くのは十時五十三分の筈であるから、どうしても、適当な時刻に箱根まで漕《こ》ぎ着けるわけには行《い》かない。儘《まま》よ。行《ゆ》き当りばったりだと、純一は思って、いよいよ九時発の列車に乗ることに極《き》めた。そして革包と膝掛とを駅夫に預けて、切符を買うことも頼んで置いて、二階の壺屋の出店に上がって行った。まだ東洋軒には代っていなかったのである。
 Buffet《ビュッフェエ》の前を通り抜けて、取り附きの室に這入って見れば、丁度夕食の時間が過ぎているので、一間《ひとま》は空虚である。壁に塗り込んだ、古風な煖炉に骸炭《コオクス》の火がきたない灰を被《かぶ》っていて、只電燈だけが景気好く附いている。純一は帽とインバネスとを壁の鉤《かぎ》に掛けて、ビュッフェエと壁一重を隔てている所に腰を掛けた。そして二品《ふたしな》ばかりの料理を誂《あつら》えて、申しわけに持って来させたビイルを、舐《な》めるようにちびちび飲んでいた。
 初音町の家を出るまで、苛立《いらだ》つようであった純一の心が、いよいよこれで汽車にさえ乗れば、箱根に行《い》かれるのだと思うと同時に、差していた汐《しお》の引くように、ずうと静まって来た。そしてこんな事を思った。平生自分は瀬戸なんぞの人柄の陋《いや》しいのを見て、何事につけても、彼と我との間には大した懸隔があると思っていた。就中《なかんずく》性欲に関する動作は、若し刹那《せつな》に動いて、偶然提供せられた受用を容《ゆる》すか斥《しりぞ》けるかと云うだけが、問題になっているのなら、それは恕《じょ》すべきである。最初から計画して、※[#「※」は「さんずい+于」、第3水準1−86−49、180−14]《けが》れた行いをするとなると、余りに卑劣である。瀬戸なんぞは、悪所へ行く積りで家を出る。そんな事は自分は敢てしないと思っていた。それに今わざわざ箱根へ行《ゆ》く。これではいよいよ堕落して、瀬戸なんぞと同じようになるのではあるまいかとも思われる。この考えは、純一の為めに、頗るfierte[#最後の「e」は「´」付き]《フィエルテエ》を損ずるもののように感ぜられたのである。そこで純一の意識は無理な弁護を試みた。それは箱根へ行ったって、必ず坂井夫人との関係を継続するとは極まっていない。向うへ行った上で、まだどうでもなる。去就の自由はまだ保留せられていると云うのであった。
 こんな事を思っているうちに、給仕がham−eggs《ハム エッグス》か何か持って来たので、純一はそれを食っていると、一人の女が這入って来た。薄給の家庭教師ででもあろうかと思われる、痩《や》せた、醜い女である。竿《さお》のように真っ直な体附きをして、引き詰めた束髪の下に、細長い頸《くび》を露《あら》わしている。持って来た蝙蝠傘《こうもりがさ》を椅子に倚《よ》せ掛けて腰を掛けたのが丁度純一のいる所と対角線で結び附けられている隅の卓で、純一にはその幅の狭い背中が見える。※[#「※」は「口+加」、第3水準1−14−93、181−8]※[#「※」は「口+非」、第4水準2−4−8、181−8]《コオフィイ》にcreme[#一つ目の「e」は「`」付き]《クレエム》を誂えたが、クレエムが来たかと思うと、直ぐに代りを言い付けて、ぺろりと舐めてしまう。又代りを言い付ける。見る間に四皿舐めた。どうしても生涯に一度クレエムを食べたい程食べて見たいと思っていたとしか思われない。純一はなんとなく無気味なように感じて、食べているものの味が無くなった。謂《い》わばロオマ人の想像していたようなlemures《レムレス》の一人が、群を離れて這入って来たように感じたのである。これには仏教の方の餓鬼という想像も手伝っていたかも知れない。とにかく迷信の無い純一がどうした事かこの女を見て、旅行が不幸に終る前兆のように感じたのである。
 急行の出る九時が段段近づいて来ると共に、客がぽつぽつこの間《ま》に這入って来て、中には老人や子供の交った大勢の組もあるので、純一の写象はやっと陰気でなくなった。どこかの学校の制服を着た、十五六の少年が煖炉の火を掻き起して、「皆ここへお出《い》で」と云って、弟や妹を呼んでいる。誰《たれ》かが食事を誂える。誰かが誂えたものが来ないと云って、小言を言う。
 喧騒《けんそう》の中《うち》に時間が来て、誰彼《たれかれ》となくぽつぽつ席を立ち始めた。クレエムを食ったfemme omineuse《ファム オミニョオズ》もこの時棒立ちに立って、蝙蝠傘を体に添えるようにして持って、出て行《ゆ》く。純一の所へは、駅夫が切符を持って催促に来た。
 プラットフォオムはだいぶ雑※[#「※」は「「しんにゅう」+「罘」の「不」を、「|」を挟んで上下に「ハ」を二つ並べたような字」、第4水準2−89−93、182−6]《ざっとう》していたが、純一の乗った二等室は、駅夫の世話にならずに、跡から這入って来た客さえ、坐席に困らない位であった。向側《むこうがわ》に細君を連れて腰を掛けている男が、「却《かえっ》て一等の方が籠《こ》んでいるよ」と、細君に話していた。
 汽車が動き出してから、純一は革包を開けて、風炉敷の中を捜して、本を一冊取り出した。青い鳥と同じ体裁の青表紙で、Henry Bernstein《アンリイ ベルンスタイン》のLe voleur《ル ヴォリヨオル》である。つまらない物と云うことは知っていながら、俗受けのする脚本の、ドラマらしいよりは寧《むし》ろ演劇らしい処を、参考に見て置こうと思って取り寄せて、そのまま読まずに置いたのであった。
 象牙《ぞうげ》の紙切り小刀《こがたな》で、初めの方を少し切って、表題や人物の書いてある処を飜《ひるがえ》して、第一幕の対話を読んでいる。気の利いた、軽い、唯骨折らずに、筋を運ばせて行《ゆ》くだけの対話だと云うことが、直ぐに分かる。退屈もしないが、興味をも感じない。
 二三ペエジ読むと、目が懈《だる》くなって来た。明りが悪いのに、黄いろを帯びた紙に、小さい活字で印刷してある、ファスケル版の本が、汽車の振動に連れて、目の前でちらちらしているのだから堪《た》まらない。大村が活動写真は目に毒だと云ったことなどを思い出す。お負《まけ》に隣席の商人らしい風をした男が、無遠慮に横から覗《のぞ》くのも気になる。
 読みさした処に、指を一本挟んで閉じた本を、膝の上に載せたまま、純一は暫く向いの窓に目を移している。汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する。闇のうちを、折折どこかの燈火《ともしび》が、流星のように背後へ走る。忽《たちま》ち稍大きい明りが窓に迫って来て、車ははためきながら、或る小さい停車|場《ば》を通り抜ける。
 純一の想像には、なんの動機もなく、ふいと故郷の事が浮かんだ。お祖母《ば》あ様の手紙は、定期刊行物のように極まって来る。書いてある事は、いつも同じである。故郷の「時」は平等に、同じ姿に流れて行《ゆ》く。こちらから御返事をするのは、遅速がある。書く手紙にも、長短がある。しかもそれが遅くなり勝ち、短くなり勝ちである。優しく、親切に書こうとは心掛けているが、いつでも紙に臨んでから、書くことのないのに当惑する。ぼんやりした、捕捉し難い本能のようなものの外には、お祖母あ様と自分とを結び附けている内生活というものが無い。しかしこれは手紙だからで、帰ってお目に掛ったら、お話をすることがないことはあるまいなどと思う。こう思うと、新年には一度帰れと、二度も続けて言って来ているのに、この汽車を国府津で降りるのが、なんだか済まない事のようで、純一は軽い良心の呵責を覚えた。
 隣の商人らしい男が新聞を読み出したのに促されて、純一は又脚本を明けて少し読む。女主人公Marie Louise《マリイ ルイイズ》の金をほしがる動機として、裁縫屋Paquin《パケン》の勘定の嵩《かさ》むことなぞが、官能欲を隠したり顕《あらわ》したりする、夫との対話の中《うち》に、そっと投げ入れてある。謀計と性欲との二つを綯《な》い交ぜにして、人を倦《う》ませないように筋を運ばせて行《ゆ》くのが、作者の唯一の手柄である。舞台に注ぐ目だけは、倦まないだろうと云うことが想像せられる。しかし読んでいる人の心は、何等の動揺をも受けない。つまりこれでは脚本と云うもののtheatral[#一つ目の「e」は「´」付き。一つ目の「a」は「^」付き]《テアトラル》な一面を、純粋に発展させたようなものだと思う。
 目がむず癢《がゆ》いようになると、本を閉じて外を見る。汽車の進行する向きが少し変って、風が烟《けむり》を横に吹き靡《なび》けるものと見えて、窓の外の闇を、火の子が彗星《すいせい》の尾のように背後へ飛んでいる。目が直ると、又本を読む。この脚本の先が読みたくなるのは、丁度探偵小説が跡を引くのと同じである。金を盗んだマリイ・ルイイズが探偵に見顕されそうになったとたんに、この女に懸想している青年Fernand《フェルナン》が罪を自分で引き受ける。憂悶《ゆうもん》の雲は忽ち無辜《むこ》の青年と、金を盗まれた両親との上に掩《おお》い掛かる。それを余所に見て、余りに気軽なマリイ・ルイイズは、閨《ねや》に入って夫に戯れ掛かる。陽に拒み、陰に促して、女は自分の寝支度を夫に手伝わせる。半ば呑《の》み半ば吐く対話と共に、女の身の皮は笋《たかんな》を剥ぐ如くに、一枚々々剥がれる。所詮東京の劇場などで演ぜられる場では無い。女の紙入れが出る。「お前は生涯|己《おれ》の写真を持ち廻るのか」「ええ。生涯持ち廻ってよ」「ちょっと見たいな」「いじっちゃあ、いや」「なぜ」「どうしてもいや」「そう云われると見たくなるなあ」「直ぐ返すのなら」「返さなかったら、どうする」「生涯あなたに物を言わないわ」「ちと覚束《おぼつか》ないな」「わたし迷信があるの。それを見られると」「変だぞ。変だぞ。その熱心に隠すのが怪しい」「開けないで下さいよ」「開ける。間男の写真を拝見しなくては」こんな対話の末、紙入れは開かれる。大金《たいきん》が出る。蒸暑い恋の詞が、氷のように冷たい嫌疑の詞になる。純一は目の痛むのも忘れて、Bresil[#「e」は「´」付き]《ブレジル》へ遣《や》られる青年を気の毒がって、マリイ・ルイイズが白状する処まで、一息に読んでしまった。そして本を革包に投げ込んで、馬鹿にせられたような心持になっていた。
 間もなく汽車が国府津に着いた。純一はどこも不案内であるから、余り遅くならないうちに泊って、あすの朝箱根へ行《い》こうと思った。革包と膝掛とを自分に持って、ぶらりと停車場を出て見ると、図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たわっている。
 宿屋はまだ皆|開《あ》いていて、燈火《ともしび》の影に女中の立ち働いているのが見える。手近な一軒につと這入って、留めてくれと云った。甲斐々々《かいがい》しい支度をした、小綺麗な女中が、忙《いそが》しそうな足を留めて、玄関に立ちはたがって、純一を頭のてっぺんから足の爪尖《つまさき》まで見卸して、「どこも開《あ》いておりません、お気の毒様」と云ったきり、くるりと背中を向けて引っ込んでしまった。
 次の宿屋に行《ゆ》く。同じようにことわられる。三軒目も四軒目も同じ事である。インバネスを着て、革包と膝掛とを提げた体裁は、余り立派ではないに違いない。しかし宿屋で気味を悪がって留めない程不都合な身なりだと云うでもあるまい。一人旅の客を留めないとか云う話が、いつどこで聞いたともなく、ぼんやり記憶
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