の片割れとも知れない金屑《かなくず》や木の切れがある。純一は小さい時、終日その中に這入って、何を捜すとなしにそのがらくたを掻き交ぜていたことがある。亡くなった母が食事の時、純一がいないというので、捜してその蔵まで来て、驚きの目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、172−12]《みは》ったことを覚えている。
この古道具屋を覗くのは、あの時の心持の名残である。一種の探検である。※[#「※」は「金+肅」、第3水準1−93−39、172−13]《さ》びた鉄瓶、焼き接ぎの痕《あと》のある皿なんぞが、それぞれの生涯のruine《ルユイイヌ》を語る。
きょう通って見ても、周囲の影響を受けずにいるのは、この店のみである。
純一が古道具屋を覗くのを見て、大村が云った。「君はいろんな物に趣味を有していると見えるね」
「そうじゃないのです。あんまり妙な物が並んでいるので、見て通るのが癖になってしまいました」
「頭の中があの店のようになっている人もあるね」
二人はたわいもない事を言って、山岡鉄舟の建てた全生庵《ぜんしょうあん》の鐘楼《しゅろう》の前を下りて行《ゆ》く。
この時下から上がって来る女学生が一人、大村に会釈をした。俯向《うつむ》けて歩いていた、廂《ひさし》の乱れ髪を、一寸横に傾けて、稲妻のように早い、鋭い一瞥《いちべつ》の下《もと》に、二人の容貌、態度、性格をまで見たかと思われる位であった。
大村は角帽を脱いで答礼をした。
純一は只女学生だなと思った。手に持っている、中身は書物らしい紫の包みの外には、喉《のど》の下と手首とを、リボンで括《くく》ったシャツや、袴《はかま》の菫色《すみれいろ》が目に留まったに過ぎない。実際女学生は余り人と変った風はしていなかった。着物は新大島、羽織はそれより少し粗い飛白《かすり》である。袴の下に巻いていた、藤紫地に赤や萌葱《もえぎ》で摸様の出してある、友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の袴下の帯は、純一には見えなかった。シャツの上に襲《かさ》ねた襦袢《じゅばん》の白衿《しろえり》には、だいぶ膩垢《あぶらあか》が附いていたが、こう云う反対の方面も、純一には見えなかった。
しかし純一の目に強い印象を与えたのは、琥珀色《こはくいろ》の薄皮の底に、表情筋が透いて見えるようなこの女の顔と、いかにも鋭敏らしい目《ま》なざしとであった。
どう云う筋の近附きだろうかと、純一が心の中《うち》に思うより先きに、大村が「妙な人に逢った」と、独言《ひとりごと》のようにつぶやいた。そして二人殆ど同時に振り返って見た時には、女はもう十歩ばかりも遠ざかっていた。
それから坂を降りて又登る途《みち》すがら、大村が問わず語りにこんな事を話した。
大村が始めてこの女に逢ったのは、去年雑誌女学界の懇親会に往った時であった。なんとか云う若いピアニストが六段をピアノで弾くのを聞いて、退屈しているところへ、遅れて来た女学生が一人あって、椅子が無いのでまごまごしていた。そこで自分の椅子を譲って遣って、傍《そば》に立っているうちに、その時もやはり本を包んで持っていた風炉敷《ふろしき》の角の引っ繰り返った処に、三枝《さいぐさ》と書いてあるのが目に附いた。その頃大村は女学界の主筆に頼まれて、短歌を選んで遣っていたが、際立って大胆な熱情の歌を度々採ったことがある。その作者の名が三枝茂子であった。三枝という氏《うじ》は余り沢山はなさそうなので、ふいと聞いて見る気になって、「茂子さんですか」と云うと、殆ど同時に女が「大村先生でいらっしゃいましょう」と云った。それから会話がはずんで、種々な事を聞くうちに、大村が外国語をしているかと問うと、独逸《ドイツ》語だと云う。独逸語を遣っている女というものには、大村はこの時始て出逢ったのである。
懇親会の翌日、大村の所へ茂子の葉書が来た。又暫く立つと、或る日茂子が突然大村の下宿へ尋ねて来た。Sudermann《ズウデルマン》のZwielicht《ズヴィイリヒト》を持って、分からない所を質問しに来たのである。さ程見当違いの質問ではなかった。しかし問わない所が皆分かっているか、どうだかと云うことを、ためして見るだけの意地わるは大村には出来なかった。
その次の度には、Nicht doch《ニヒト ドホ》と云う、Tavote《タヴォオテ》の短篇集を持って来た。先ず「ニヒト・ドホはなんと訳しましたら宜《よろ》しいのでしょう」と問われたには、大村は少からず辟易《へきえき》したと云うのである。これを話す時、大村は純一に、この独逸特有の語《ことば》を説明した。フランスのpoint du tout《ポアン ドュ ツウ》や、nenni−da[#「a」は「`」付き]《ナンニイ ダア》に稍《やや》似ていて、どこやら符合しない語《ことば》なのである。極めて平易に書いた、極めて浅薄な、廉価なる喝采《かっさい》を俗人の読者に求めているらしい。タヴォオテの、あの巻頭の短篇を読んで見れば、多少隔靴の憾《うらみ》はあるとしても、前後の文意で、ニヒト・ドホがまるで分からない筈は無い。それが分かっているとすれば、この語《ことば》の説明に必然伴って来る具体的の例が、どんなものだということも分かっていなくてはならない。実際少しでも独逸が読めるとすれば、その位な事は分かっている筈である。それが分かっていて、なんの下心もなく、こんな質問をすることが出来る程、茂子さんはinnocente《アンノサント》なのだろうか。それでは、篁村翁《こうそんおう》にでも言わせれば、余りに「紫の矢絣《やがすり》過ぎている」それであの人のいつも作るような、殆ど暴露的な歌が作られようか。今の十六の娘にそんなのがあろうか。それともと考え掛けて、大村はそれから先きを考えることを憚《はばか》ったと云うのである。
茂子さんはそれきり来なくなった。大村が云うには、二人は素《も》と交互の好奇心から接近して見たのであるが、先方でもこっちでも、求むる所のものを得なかった。そこで恩もなく怨みもなく別れてしまった。勿論《もちろん》先方が近づいて来るにも遠ざかって行《ゆ》くにも、主動的にはなっていたが、こっちにも好奇心はあったから、あらわに動かなかった中《うち》に、迎合し誘導した責は免れないと、大村は笑いながら云った。
大村がこう云って、詞を切ったとき、二人は往来から引っ込めて立てた門のある、世尊院の前を歩いていた。寒そうな振《ふり》もせずに、一群の子供が、門前の空地で、鬼ごっこをしている。
「一体どんな性質の女ですか」と、突然純一が問うた。
「そうさね。歌を見ると、情に任せて動いているようで、逢って見ると、なかなか駈引のある女だ」
「妙ですね。どんな内の娘ですか」
「僕が問いもせず、向うが話しもしなかったのだが、後《のち》になって外《ほか》から聞けば、母親は京橋辺に住まって、吉田流の按摩《あんま》の看板を出していると云うことだった」
「なんだか少し気味が悪いようじゃありませんか」
「さあ。僕もそれを聞いたときは、不思議なようにも思い、又君の云う通り、気味の悪いようにも思ったね。それからそう思ってあの女の挙動を、記憶の中から喚び起して見ると、年は十六でも、もうあの時に或る過去を有していたらしいのだね。やはりその身元の話をした男が云ったのだが、茂子さんは初め女医になるのだと云って、日本医学校に這入って、男生ばかりの間に交って、随意科の独逸語を習っていたそうだ。その後《のち》何度学校を換えたか知れない。女子の学校では、英語と仏語の外は教えていないからでもあろうが、医学を罷《や》めたと云ってからも、男ばかりの私立学校を数えて廻っている。或る官立学校で独逸語を教えている教師の下宿に毎日通って、その教師と一しょに歩いていたのを見られたこともある。妙な女だと、その男も云っていた。とにかくproblematique[#一つ目の「e」は「´」付き]《プロブレマチック》な所のある女だね」
二人は肴町《さかなまち》の通りへ曲った。石屋の置場のある辺を通る時、大村が自分の下宿へ寄れと云って勧めたが、出発の用意は無いと云っても、手紙を二三本は是非書かなくてはならないと云うのを聞いて、純一は遠慮深くことわって、葬儀屋の角で袂を別った。
「Au revoir《オオ ルヴォアアル》!」の一声《いっせい》を残して、狭い横町を大股《おおまた》に歩み去る大村を、純一は暫く見送って、夕《ゆうべ》の薄衣《うすぎぬ》に次第に包まれて行《ゆ》く街を、追分の方へ出た。点燈会社の人足が、踏台を片手に提げて駈足で摩《す》れ違った。
二十二
箱根湯本の柏屋という温泉宿の小座舗《こざしき》に、純一が独り顔を蹙《しか》めて据わっている。
きょうは十二月三十一日なので、取引やら新年の設けやらの為めに、家《うち》のものは立ち騒いでいるが、客が少いから、純一のいる部屋へは、余り物音も聞えない。只早川の水の音がごうごうと鳴っているばかりである。伊藤公の書いた七絶《しちぜつ》の半折《はんせつ》を掛けた床の間の前に、革包《かばん》が開けてあって、その傍《そば》に仮綴のinoctavo《アノクタヴォ》版の洋書が二三冊、それから大版の横文《おうぶん》雑誌が一冊出して開いてある。縦にペエジを二つに割って印刷して、挿画《さしえ》がしてある。これはL'Illustration Theatrale[#「Theatrale」の一つ目の「e」は「´」付き、一つ目の「a」は「^」付き]《リルリュストラション テアトラアル》の来たのを、東京を立つ時、そのまま革包に入れて出たのである。
ゆうべ東京を立って、今箱根に着いた。その足で浴室に行って、綺麗な湯を快く浴びては来たが、この旅行を敢《あえ》てした自分に対して、純一は頗《すこぶ》る不満足な感じを懐《いだ》いている。それが知らず識《し》らず顔色にあらわれているのである。
* * *
大村は近県旅行に立ってしまう。外に友達は無い。大都会の年の暮に、純一が寂しさに襲われたのも、無理は無いと云えば、それまでの事である。しかし純一はこれまで二日や三日人に物を言わずにいたって、本さえ読んでいれば、寂しいなんと云うことを思ったことはなかったのである。
寂しさ。純一を駆って箱根に来させたのは、果して寂しさであろうか。Solitude《ソリチュウド》であろうか。そうではない。気の毒ながらそうではない。ニイチェの詞遣《ことばづかい》で言えば、純一はeinsam《アインザアム》なることを恐れたのではなくて、zweisam《ツヴァイザアム》ならんことを願ったのである。
それも恋愛ゆえだと云うことが出来るなら、弁護にもなるだろう。純一は坂井夫人を愛しているのではない。純一を左右したものはなんだと、追窮して見れば、つまり動物的の策励だと云わなくてはなるまい。これはどうしたって庇護《ひご》をも文飾をも加える余地が無さそうだ。
東京を立った三十日の朝、純一はなんとなく気が鬱してならないのを、曇った天気の所為《せい》に帰しておった。本を読んで見ても、どうも興味を感じない。午後から空が晴れて、障子に日が差して来たので、純一は気分が直るかと思ったが、予期とは反対に、心の底に潜んでいた不安の塊りが意識に上ぼって、それが急劇に増長して来て、反理性的の意志の叫声《さけびごえ》になって聞え始めた。その「箱根へ、箱根へ」と云う叫声に、純一は策《むち》うたれて起《た》ったに相違ない。
純一は夕方になって、急に支度をし始めた。そこらにある物を掻《か》き集めて、国から持って出た革包に入れようとしたが、余り大きくて不便なように思われたので、風炉敷に包んだ。それから東京に出る時買って来た、駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》を出した。そして植長の婆あさんに、年礼に廻るのがうるさいから、箱根で新年をするのだと云って、車を雇わせた。実は東京にいたって、年礼に行《い》かなくてはならない家は一軒も無いのである。
余
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