て、ほんの束《つか》の間に、長い夢を繰り返して見た。そして、それを繰り返して見ている間は、その輪廓《りんかく》や色彩のはっきりしていて、手で掴まれるように感ぜられるのに打たれて、ふとあんな工合に物が書かれたら好かろうと思った。そう思って、又繰り返して見ようとすると、もう輪廓は崩れ色彩は褪《あ》せてしまって、不自然な事やら不合理な事やらが、道の小石に足の躓《つまず》くように、際立って感ぜられた。

     二十

 午前十時頃であった。初音町の往来へ向いた方の障子に鼠色の雲に濾《こ》された日の光が、白らけた、殆ど色神《しきしん》に触れない程な黄いろを帯びて映じている純一が部屋へ、大村荘之助が血色の好《い》い、爽快な顔付きをして這入って来た。
「やあ、内にいてくれたね。葉書は出して置いたが、今朝起きて見れば、曇ってはいるけれど、先《ま》ず東京の天気としては、不愉快ではない日だから、どこか出掛けはしないかと思った」
 純一は自分の陰気な部屋へ、大村と一しょに一種の活気が這入って来たような心持がした。そして火鉢の向うに胡坐《あぐら》を掻《か》いた、がっしりした体格の大村を見て、語気もその晴れ晴れしさに釣り込まれて答えた。「なに。丁度|好《い》いと思っていました。どこと云って行《い》くような処もないのですから」
 大村の話を聞けば、休暇中一月の十日頃まで、近県旅行でもしようかと思う、それで告別の心持で来たということである。純一は心から友情に感激した。
 一つ二つ話をしているうちに、大村が机の上にある青い鳥の脚本に目を附けた。
「何か読んでいるね」と云って、手に取りそうにするので、純一ははっと思った。中におちゃらの名刺の挟んであるのを見られるのが、心苦しいのである。
 そこで純一は機先を制するように、本を手に取って、「L'oiseau bleu《ロアゾオ ブリヨオ》です」と云いながら、自分で中を開けて、初《はじめ》の方をばらばらと引っ繰り返して、十八ペエジの処を出した。
「ここですね。A peine Tyltyl a−t−il tourne[#「tourne」の「e」は「´」付き] le diamant, qu'un changement soudain et prodigieux s'opere[# 「s'opere」の一つ目の「e」は「`」付き] en toutes choses.《ア ペエヌ チルチル アチル ツウルネエ ル ジアマン カン シャンジュマン スデン エエ プロジジオヨオ ソペエル アン ツウト ショオズ》ここの処が只のと書き[#「と書き」に傍点]だとは思われない程、美しく書いてありますね。僕は国の中学にいた頃、友達にさそわれて、だいぶ学問のある坊さんの所へちょいちょい行ったことがあります。丁度その坊さんが維摩経《ゆいまきょう》の講釈をしていました。みすぼらしい維摩居士の方丈の室が荘厳世界《そうごんせかい》に変る処が、こんな工合ですね。しかし僕はもうずっと先きの方まで読んでいますが、この脚本の全体の帰趣《きしゅ》というようなものには、どうも同情が出来ないのです。麺包《パン》と水とで生きていて、クリスマスが来ても、子供達に樅《もみ》の枝に蝋燭《ろうそく》を点して遣ることも出来ないような木樵《きこ》りの棲《す》み家《か》にも、幸福の青い鳥は籠《かご》の内にいる。その青い鳥を余所《よそ》に求めて、Tyltyl, Mytyl《チルチル ミチル》のきょうだいの子は記念の国、夜の宮殿、未来の国とさまよい歩くのですね。そしてその未来の国で、これから先きに生れて来る子供が、何をしているかと思うと、精巧な器械を工夫している。翼なしに飛ぶ手段を工夫している。あらゆる病を直す薬方を工夫している。死に打ち克《か》つ法を工夫している。ひどく物質的な事が多いのですね。そんな事で人間が幸福になられるでしょうか。僕にはなんだか、ひどく矛盾しているように思われてなりません。十九《じゅうく》世紀は自然科学の時代で、物質的の開化を齎《もたら》した。我々はそれに満足することが出来ないで、我々の触角を外界から内界に向け換えたでしょう。それに未来の子供が、いろんな器械を持って来てくれたり、西瓜《すいか》のような大きさの林檎《りんご》を持って来てくれたりしたって、それがどうなるでしょう。おう。それから鼻糞《はなくそ》をほじくっている子供がいましたっけ。大かた鴎村さんが大発見の追加を出すだろうと、僕は思ったのです。あの子供が鼻糞をほじくりながら、何を工夫しているかと思うと、太陽が消えてしまった跡で、世界を煖《ぬく》める火を工夫しているというのですね。そんな物は、現在の幸福が無くなった先きの入れ合せに過ぎないじゃありませんか。そりゃあ、なる程、人のまだ考えたことのない考《かんがえ》を考えている子供だとか、あらゆる不公平を無くしてしまう工夫をしている子供だとか云うのもいました。内生活に立ち入る様な未来もまるで示してないことはないのです。しかし僕にはそれが、唯雑然と並べてあるようで、それを結び附ける鎖が見附からないのです。矛盾が矛盾のままでいるのですね。どう云うものでしょう」
 純一は覚えず能弁になった。そして心の底には始終おちゃらの名刺が気になっている。大村がその本をよこせと云って、手を出すような事がなければ好《い》いがと、切に祈っているのである。
 幸に大村は手を出しそうにもしないで云った。「そうさね。矛盾が矛盾のままでいるような所は、その脚本の弱点だろうね。しかし一体哲学者というものは、人間の万有の最終問題から観察している。外から覗《のぞ》いている。ニイチェだって、この間話の出たワイニンゲルだってそうだ。そこで君の謂《い》う内界が等閑にせられる。平凡な日常の生活の背後に潜んでいる象徴的意義を体験する、小景を大観するという処が無い。そう云う処のある人は、Simmel《シムメル》なんぞのような人を除《の》けたらマアテルリンクしかあるまい。だから君が雑然と並べてあると云う、あの未来の国の子供の分担している為事《しごと》が、悉《ことごと》く解けて流れて、青い鳥の象徴の中に這入ってしまうように書きたかったには違いないが、それがそう行《ゆ》かなかったのでしょう」
 純一は大村の詞を聞いているうちに、名刺を発見せられはすまいかと思う心配が次第に薄らいで行って、それと同時に大村が青い鳥から拈出《ねんしゅつ》した問題に引き入れられて来た。
「ところが、どうも僕にはその日常生活というものが、平凡な前面だけ目に映じて為様《しよう》がないのです。そんな物はつまらないと思うのです。これがいつかもお話をした利己主義と関係しているのではないでしょうか」
「それは大《おおい》に関係していると思うね」
「そうですか。そんならあなたの考えている所を、遠慮なく僕に話して聞かせて貰いたいのですがねえ」純一は大きい涼しい目を耀《かがや》かして、大村の顔を仰ぎ見た。
 大村は手に持っていた紙巻の消えたのを、火鉢の灰に挿して語り出した。「そうだね。そんなら無遠慮に大風呂敷を広げるよ」大村は白い歯を露《あら》わして、ちょっと笑った。「一体青い鳥の幸福という奴は、煎《せん》じ詰めて見れば、内に安心立命を得て、外に十分の勢力を施すというより外有るまいね。昨今はそいつを漢学の道徳で行《い》こうなんという連中があるが、それなら修身斉家治国平天下で、解決は直ぐに附く。そこへ超越的な方面が加わって来ても、老荘を始として、仏教渡来以後の朱子学やら陽明学というようなものになるに過ぎない。西洋で言って見ると希臘《ギリシア》の倫理がPlaton《プラトン》あたりから超越的になって、基督《クリスト》教がその方面を極力開拓した。彼岸に立脚して、馬鹿に神々《こうごう》しくなってしまって、此岸《しがん》がお留守になった。樵夫《きこり》の家に飼ってある青い鳥は顧みられなくなって、余所に青い鳥を求めることになったのだね。僕の考では、仏教の遁世《とんせい》も基督教の遁世も同じ事になるのだ。さてこれからの思想の発展というものは、僕は西洋にしか無いと思う。Renaissance《ルネッサンス》という奴が東洋には無いね。あれが家の内の青い鳥をも見させてくれた。大胆な航海者が現れて、本当の世界の地図が出来る。天文も本当に分かる。科学が開ける。芸術の花が咲く。器械が次第に精巧になって、世界の総てが仏者の謂う器世界《きせいかい》ばかりになってしまった。殖産と資本とがあらゆる勢力を吸収してしまって、今度は彼岸がお留守になったね。その時ふいと目が醒めて、彼岸を覗いて見ようとしたのが、ショペンハウエルという変人だ。彼岸を望んで、此岸を顧みて見ると、万有の根本は盲目の意志になってしまう。それが生を肯定することの出来ない厭世《えんせい》主義だね。そこへニイチェが出て一転語を下した。なる程生というものは苦艱《くげん》を離れない。しかしそれを避けて逃げるのは卑怯《ひきょう》だ。苦艱|籠《ご》めに生を領略する工夫があるというのだ。What《ホワット》の問題をhow《ハウ》にしたのだね。どうにかしてこの生を有《あり》のままに領略しなくてはならない。ルソオのように、自然に帰れなどと云ったって、太古と現在との中間の記憶は有力な事実だから、それを抹殺《まっさつ》してしまうことは出来ない。日本で※[#「※」は「くさかんむり+言+爰」、第3水準1−91−40、163−9]園《かんえん》派の漢学や、契冲《けいちゅう》、真淵《まぶち》以下の国学を、ルネッサンスだなんと云うが、あれは唯復古で、再生ではない。そんならと云って、過去の記憶の美しい夢の国に魂を馳《は》せて、Romantiker《ロマンチケル》の青い花にあこがれたって駄目だ。Tolstoi《トルストイ》がえらくたって、あれも遁世的だ。所詮|覿面《てきめん》に日常生活に打《ぶ》っ附かって行《い》かなくては行けない。この打っ附かって行く心持がDionysos《ジオニソス》的だ。そうして行きながら、日常生活に没頭していながら、精神の自由を牢《かた》く守って、一歩も仮借しない処がApollon《アポルロン》的だ。どうせこう云う工夫で、生を領略しようとなれば、個人主義には相違ないね。個人主義は個人主義だが、ここに君の云う利己主義と利他主義との岐路がある。利己主義の側はニイチェの悪い一面が代表している。例の権威を求める意志だ。人を倒して自分が大きくなるという思想だ。人と人とがお互にそいつを遣り合えば、無政府主義になる。そんなのを個人主義だとすれば、個人主義の悪いのは論を須《ま》たない。利他的個人主義はそうではない。我という城廓を堅く守って、一歩も仮借しないでいて、人生のあらゆる事物を領略する。君には忠義を尽す。しかし国民としての我は、昔何もかもごちゃごちゃにしていた時代の所謂《いわゆる》臣妾《しんしょう》ではない。親には孝行を尽す。しかし人の子としての我は、昔子を売ることも殺すことも出来た時代の奴隷ではない。忠義も孝行も、我の領略し得た人生の価値に過ぎない。日常の生活一切も、我の領略して行《ゆ》く人生の価値である。そんならその我というものを棄てることが出来るか。犠牲にすることが出来るか。それも慥《たしか》に出来る。恋愛生活の最大の肯定が情死になるように、忠義生活の最大の肯定が戦死にもなる。生が万有を領略してしまえば、個人は死ぬる。個人主義が万有主義になる。遁世主義で生を否定して死ぬるのとは違う。どうだろう、君、こう云う議論は」大村は再び歯を露わして笑った。
 熱心に聞いていた純一が云った。「なる程そんなものでしょうかね。僕も跡で好く考えて見なくては分からないのですが、そんな工合に連絡を附けて見れば、切れ切れになっている近世の思想に、綜合点が出来て来るように思われますね。こないだなんとか云う博士《はくし》の説だと云うので、こんな事が書いてありましたっけ。個人主義は西洋の思想で、個人主義では自己を犠牲にすることは出来ない。東洋では個
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