十八

 純一は亀清の帰りに、両国橋の袂に立って、浜町の河岸を廻って来る電車を待ち受けて乗った。歳の暮が近くなっていて、人の往来《ゆきき》も頻繁《ひんぱん》な為めであろう。その車には満員の赤札が下がっていたが、停車|場《ば》で二三人降りた人があったので、とにかく乗ることだけは乗られた。
 車の背後の窓の外に、横に打ち附けてある真鍮《しんちゅう》の金物に掴まって立っていると、車掌が中へ這入《はい》れと云う。這入ろうと思って片足高い処に踏み掛けたが、丁度出入口の処に絆纏《はんてん》を着た若い男が腕組をして立っていて、屹然《きつぜん》として動かない。純一は又足を引っ込めて、そのまま外にいたが、車掌も強いて這入れとは云わなかった。
 そのうち車が急に曲がった。純一は始て気が附いて見れば、浅草へ行く車であった。宴会の席で受けた色々の感動が頭の中でchaos《カオス》を形づくっているので、何処《どこ》へ行く車か見て乗るという注意が、覚えず忘れられたのである。
 帰りの切符を出して、上野広小路への乗換を貰った。そして車掌に教えられて、廐橋《うまやばし》の通りで乗り換えた。
 こん度の本所《ほんじょ》から来た車は、少し透いていたので、純一は吊革《つりがわ》に掴まることが出来た。人道を歩いている人の腰から下を見ている純一が頭の中には、おちゃらが頸筋《くびすじ》を長く延べて据わった姿や、腰から下の長襦袢を見せて立った形がちらちら浮んだり消えたりして、とうとう便所の前での出来事が思い出されたとき、想像がそこに踏み止《とど》まって動かない。この時の言語と動作とは、一々|精《くわ》しく心の中《うち》に繰り返されて、その間は人道をどんな人が通るということも分からなくなる。
 どういう動機であんな事をしたのだろうという問題は、この時早くも頭を擡《もた》げた。随分官能は若い血の循環と共に急劇な動揺をもするが、思慮は自分で自分を怪しむ程冷やかである。或時瀬戸が「君は老人のような理窟《りくつ》を考えるね」と云ったのも道理である。色でしたか、慾でしたか、それとも色と慾との二道《ふたみち》掛けてしたかと、新聞紙の三面の心理のような事が考えられる。そして慾でするなら、書生風の自分を相手にせずとも、もっと人選《にんせん》の為様《しよう》がありそうなものだと、謙譲らしい反省をする、その裏面にはvanite[# 最後の「e」は「´」付き]《ヴァニテエ》が動き出して来るのである。しかし恋愛はしない。恋愛というものをいつかはしようと、負債のように思っていながら、恋愛はしない。思慮の冷かなのも、そのせいだろうかなどと考えて見る。
 広小路で電車を下りたときは、少し風が立って、まだ明りをかっかっと点《とも》している店々の前に、新年の設けに立て並べてある竹の葉が戦《そよ》いでいた。純一は外套の襟を起して、頸を竦《すく》めて、薩摩下駄をかんかんと踏み鳴らして歩き出した。
 谷中の家の東向きの小部屋にある、火鉢が恋しくなった処を、車夫に勧められて、とうとう車に乗った。車の上では稍々《やや》強く顔に当る風も、まだ酔《えい》が残っているので、却《かえっ》て快い。
 東照宮の大鳥居の側《そば》を横ぎる、いつもの道を、動物園の方へ抜けるとき、薄暗い杉木立の下で、ふと自分は今何をしているかと思った。それからこのまま何事をも成さずに、あの聖堂の狸《たぬき》の話をしたお爺いさんのようになってしまいはすまいかと思ったが、馬鹿らしくなって、直ぐに自分で打消した。
 天王寺の前から曲れば、この三崎北町《さんさききたまち》あたりもまだ店が締めずにある。公園一つを中に隔てて、都鄙《とひ》それぞれの歳暮《さいぼ》の賑《にぎわ》いが見える。
 我家の門で車を返して、部屋に這入った。袂から蝋《ろう》マッチを出して、ランプを附けて見れば、婆あさんが気を附けてくれたものと見えて、丁寧に床が取ってあるばかりではない、火鉢に掛けてある湯沸かしには湯が沸いている。それを卸して見れば、生けてある佐倉炭が真赤におこっている。純一はそれを掻き起して、炭を沢山くべた。
 綺麗《きれい》に片附けた机の上には、読みさして置いて出たマアテルリンクの青い鳥が一冊ある。その上に葉書が一枚乗っている。ふと明日箱根へ立つ人の便りかと思って、手に取る時何がなしに動悸《どうき》がしたがそうでは無かった。差出人は大村であった。「明日参上いたすべく候《そうろう》に付、外《ほか》に御用事なくば、御待下されたく候。尤《もっと》も当方も用事にては無之《これなく》候」としてある。これだけの文章にも、どこやら大村らしい処があると感じた純一は、独り微笑《ほほえ》んで葉書を机の下にある、針金で編んだ書類入れに入れた。これは純一が神保町《じんぼうちょう》の停留|場《ば》の傍《わき》で、ふいと見附けて買ったのである。
 それから純一は、床の間の隅に置いてある小葢《こぶた》を引き出して、袂から金入れやら時計やらを、無造作に攫《つか》み出して、投げ入れた。その中に小さい名刺が一枚交っていた。貰ったままで、好くも見ずに袂に入れた名刺である。一寸《ちょっと》拾って見れば、「栄屋おちゃら」と厭《いや》な手で書いたのが、石版摺《せきばんずり》にしてある。
 厭な手だと思うと同時に、純一はいかに人のおもちゃになる職業の女だとは云っても、厭な名を附けたものだと思った。文字に書いたのを見たので、そう思ったのである。名刺という形見を手に持っていながら、おちゃらの表情や声音《せいおん》が余りはっきり純一の心に浮んでは来ない。着物の色どりとか着こなしとかの外には、どうした、こう云ったという、粗大な事実の記憶ばかりが残っているのである。
 しかしこの名刺は純一の為めに、引き裂いて棄てたり、反古籠《ほごかご》に入れたりする程、無意義な物ではなかった。少くも即時にそうする程、無意義な物ではなかった。そんなら一人で行って、おちゃらを呼んで見ようと思うかと云うに、そういう問題は少くも目前の問題としては生じていない。只棄ててしまうには忍びなかった。一体名刺に何の意義があるだろう。純一はそれをはっきりとは考えなかった。或《あるい》は彼が自ら愛する心に一縷《いちる》のencens《アンサン》を焚《た》いて遣った女の記念ではなかっただろうか。純一はそれをはっきりとは考えなかった。
 純一は名刺を青い鳥のペエジの間に挟んだ。そして着物も着換えずに、床の中に潜り込んだ。

     十九

 翌朝純一は十分に眠った健康な体の好《い》い心持で目を醒《さ》ました。只|咽《のど》に痰《たん》が詰まっているようなので咳払《せきばらい》を二つ三《みつ》して見て風を引いたかなと思った。しかしそれは前晩《ぜんばん》に酒を飲んだ為めであったと見えて漱《うが》いをして顔を洗ってしまうと、さっぱりした。
 机の前に据わって、いつの間にか火の入れてある火鉢に手を翳《かざ》したとき、純一は忽《たちま》ち何事をか思い出して、「あ、今日だったな」と心の中《うち》につぶやいた。丁度学校にいた頃、朝起きて何曜日だということを考えて、それと同時にその日の時間表を思い出したような工合である。
 純一が思い出したのは、坂井の奥さんが箱根へ行《ゆ》く日だということであった。誘われた通りに、跡から行こうと、はっきり考えているのではない。それが何より先きに思い出されたのは、奥さんに軽い程度のsuggestion《サジェスション》を受けているからである。一体夫人の言語や挙動にはsuggestif《サジェスシイフ》な処があって、夫人は半ば無意識にそれを利用して、寧《むし》ろ悪用して、人の意志を左右しようとする傾きがある。若し催眠術者になったら、大いに成功する人かも知れない。
 坂井の奥さんが箱根へ行《ゆ》く日だと思った跡で、純一の写象は暗中の飛躍をして、妙な記憶を喚び起した。それは昨夜《ゆうべ》夜明け近くなって見た夢の事である。その夢を見掛けて、ちょいと驚いて目を醒まして、直ぐに又|寐《ね》てしまったが、それからは余り長く寐たらしくはない。どうしても夜明け近《ぢか》くなってからである。
 なんでも大村と一しょに旅行をしていて、どこかの茶店に休んでいた。大宮で休んだような、人のいない葭簀張《よしずば》りではない。茶を飲んで、まずい菓子|麪包《パン》か何か食っている。季節は好く分からないが、目に映ずるものは暖い調子の色に飽いている。薄曇りのしている日の午後である。大村と何か話して笑っていると、外から「海嘯《つなみ》が来ます」と叫んだ女がある。自分が先きに起《た》って往来に出て見た。
 広い畑《はた》と畑との間を、真直に長く通っている街道である。左右には溝《みぞ》があって、その縁《ふち》には榛《はん》の木のひょろひょろしたのが列をなしている。女の「あれ、あそこに」という方角を見たが、灰色の空の下に別に灰色の一線が劃《かく》せられているようなだけで、それが水だとはっきりは見分けられない。その癖純一の胸には劇《はげ》しい恐怖が湧《わ》く。そこへ出て来た大村を顧みて、「山の近いのはどっちだろう」と問う。大村は黙っている。どっちを見ても、山らしい山は見えない。只水の来るという方角と反対の方角に、余り高くもない丘陵が見える。純一はそれを目掛けて駈け出した。広い広い畑を横に、足に任せて駈けるのである。
 折々振り返って見るに、大村はやはり元の街道に動かずに立っている。女はいない。夢では人物の経済が自由に行われる。純一は女がいなくなったとも思わないから、なぜいないかと怪しみもしない。

 忽ちscene[#一つ目の「e」は「`」付き]《セエヌ》が改まった。場所の変化も夢では自由である。純一は水が踵《かかと》に迫って来るのを感ずると共に、傍《そば》に立っている大きな木に攀《よ》じ登った。何の木か純一には分からないが広い緑色の葉の茂った木である。登り登って、扉のように開いている枝に手が届いた。身をその枝の上に撥《は》ね上げて見ると、同じ枝の上に、自分より先きに避難している人がある。所々に白い反射のある緑の葉に埋《うず》もれて、長い髪も乱れ、袂も裾も乱れた女がいるのである。
 黄いろい水がもう一面に漲《みなぎ》って来た。その中に、この一本の木が離れ小島のように抜き出《い》でている。滅びた世界に、新《あらた》に生れて来たAdam《アダム》とEva《エヴァ》とのように梢《こずえ》を掴む片手に身を支えながら、二人は遠慮なく近寄った。
 純一は相触れんとするまでに迫まり近づいた、知らぬ女の顔の、忽ちおちゃらになったのを、少しも不思議とは思わない。馴馴しい表情と切れ切れの詞《ことば》とが交わされるうちに、女はいつか坂井の奥さんになっている。純一が危《あやう》い体を支えていようとする努力と、僅かに二人の間に存している距離を縮めようと思う慾望とに悩まされているうちに、女の顔はいつかお雪さんになっている。
 純一がはっと思って、半醒覚《はんせいかく》の状態に復《かえ》ったのはこの一刹那《いっせつな》の事であった。誰《たれ》やらの書いたものに、人は夢の中ではどんな禽獣《きんじゅう》のような行いをも敢《あえ》てして恬然《てんぜん》としているもので、それは道徳という約束の世間にまだ生じていない太古に復るAtavisme《アタヴィスム》だと云うことがあった。これは随分思い切った推理である。しかしその是非はとにかく措《お》いて、純一はそんなAtavisme《アタヴィスム》には陥らなかった。或は夢が醒め際になっていて、醒めた意識の幾分が働いていたのかも知れない。
 半醒覚の純一が体には慾望の火が燃えていた。そして踏み脱いでいた布団を、又|領元《えりもと》まで引き寄せて、腮《あご》を埋《うず》めるようにして、又寐入る刹那には、朧《おぼろ》げな意識の上に、見果てぬ夢の名残を惜む情が漂っていた。しかしそれからは、短い深い眠《ねむり》に入《い》ったらしい。
 純一が写象は、人間の思量の無碍《むげ》の速度を以
前へ 次へ
全29ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング