断《た》って、このAtropos《アトロポス》は席を立った。
 その時、老妓の席を立つのを待っていたかと思われるように、入り代って来て据わった島田は、例の別品である。手には徳利を持っている。
「あなた、お熱いところを」と、徳利を金鎖の親爺の前へ、つと差し出した。
 親爺は酒を注がせながら、女の顔をうるさく見て、「お前の名はなんと云うのだい」と問う。
「おちゃら」と返事をしたが、その返事には愛敬笑《あいきょうわらい》も伴っていない。そんならと云って、さっきの婆あさんのように、人を馬鹿にしたと云う調子でもない。おちゃらの顔の気象は純然たるcalme《カルム》が支配している。無風である。
 純一は横からこの女を見ている。極《ごく》若い。この間までお酌という雛《ひよこ》でいたのが、ようようdrue《ドリュウ》になったのであろう。細面の頬にも鼻にも、天然らしい一抹《いちまつ》の薄紅《うすくれない》が漲《みなぎ》っている。涼しい目の瞳《ひとみ》に横から見れば緑色の反射がある。着物は落ち着いた色の、上着と下着とが濃淡を殊にしていると云う事だけ、純一が観察した。藤鼠《ふじねずみ》、色変りの織縮緬《おりちりめん》に、唐織お召の丸帯をしていたのである。帯上げは上に、腰帯は下に、帯を中にして二つの併行線を劃《かく》した緋《ひ》と、折り返して据わった裾に、三角形をなしている襦袢の緋とが、先《ま》ずひどく目を刺戟《しげき》する。
 純一が肴《さかな》を荒しながら向うをちょいちょい見ると、女の方でも小さい煙管《きせる》で煙草を飲みながらこっちをちょいちょい見る。ひょいと島田髷《しまだまげ》を前へ俯向《うつむ》けると、脊柱《せきちゅう》の処の着物を一掴《ひとつか》み、ぐっと下へ引っ張って着たような襟元に、尖《さき》を下にした三角形の、白いぼんの窪《くぼ》が見える。純一はふとこう思った。この女は己《おれ》のいる処の近所へ来るようにしているのではあるまいか。さっき高山先生の前に来た時も、知らない内に己の横手に据わっていた。今金鎖の親爺の前に来ているのも己の席に近いからではあるまいかと思ったのである。しかし直ぐに又自分を嘲《あざけ》った。幾ら瀬戸の言うのが事実で、今夜来ている芸者はお茶碾きばかりでも、小倉袴を穿《は》いた書生の跡を追い廻す筈《はず》がない。我ながら馬鹿気た事を思ったものだと、純一は心機一転して、丁度持て来た茶碗蒸しを箸《はし》で掘り返し始めた。
 この時|黒羽二重《くろはぶたえ》の五所紋《いつつもん》の羽織を着流した、ひどくにやけた男が、金鎖の前に来て杯を貰っている。二十代の驚くべく垢《あか》の抜けた男で、物を言う度に、薄化粧をしているらしい頬に、竪《たて》に三本ばかり深い皺が寄る。その物を言う声が、なんとも言えない、不自然な、きいきい云うような声である。Voix de fausset《ヴォア ド フォオセエ》である。
 左の手を畳に衝いて受けた杯に、おちゃらが酌をすると、「憚様《はばかりさま》」と挨拶をする。香油に光る髪が一握程、狭い額に垂れ掛かっている。
 金鎖がこんな事を云う。「こないだは内の子供等が有楽座へ見に行って、帰ってから君のお噂《うわさ》をしていましたよ。大相《たいそう》面白かったそうで」
「いえ未熟千万でございまして。しかしどうぞ御閑暇《ごかんか》の節に一度御見物を願いたいものでございます」
 純一は曽根の話に、新俳優が来ていると云ったことを思い出した。そして御苦労にもこの俳優の為めに前途を気遣った。俳優は種々な人物に扮《ふん》して、それぞれ自然らしい科白《かはく》をしなくてはならない。それが自分に扮しているだけで、すでにあんな不自然に陥っている。あのまま青年俳優の役で舞台に出たら、どうだろう。どうしても真面目な劇にはならない。Facetie[#一つ目の「e」は「´」付き]《ファセエチイ》である。俄《にわか》である。先ずあの声はどうしたのだろう。あの男だって、決して生れながらにあんな声が出るのではあるまい。わざわざ好《い》い声をしようと思って、あんな声を出して、それが第二の天賦になったのだろう。譬《たと》えば子供が好《い》い子をしろと云われて、醜いgrimace《グリマス》を見せるようなものだろう。気の毒な事だと思った。
 こう思うと同時に、純一はおちゃらがこの俳優に対して、どんな態度に出るかを観察することを怠らない。
 社会のあらゆる方面は、相接触する機会のある度に、容赦なく純一のillusion《イリュウジョン》を打破してくれる。殊に東京に出てからは、どの階級にもせよ、少し社会の水面に頭を出して泳いでいる人間を見る毎に、もはや純一はその人が趣味を有しているなんぞとは予期していない。そこで芸者が趣味を解していようとは初めから思っていない。
 しかしおちゃらはこのにやけ男を、青眼を以て視るだろうか。将《は》た白眼を以て視るだろうか。
 純一の目に映ずる所は意外であった。おちゃらは酌をするとき、ちょいと見たきり顧みない。反応《はんおう》はどう見ても中性である。
 俳優はおちゃらと袖の相触れるように据わって、杯を前に置いて、やはり左の手を畳に衝いて話している。
「狂言も筋が御見物にお分かりになれば宜しいということになりませんと、勤めにくくて困ります。脚本の長い白《せりふ》を一々|諳記《あんき》させられてはたまりません。大家のお方の脚本は、どうもあれに困ります。女形ですか。一度調子を呑み込んでしまえば、そんなにむずかしくはございません。女優も近々出来ましょうが、やはり男でなくては勤めにくい女の役があると仰《おっ》しゃる方もございます。西洋でも昔は男ばかりで女の役を勤めましたそうでございます」
 金鎖は天晴《あっぱれ》mecene[ #一つ目の「e」は「´」付き。二つ目の「e」は「`」付き]《メセエヌ》らしい顔をして聞いている。おちゃらはさも退屈らしい顔をして、絎紐《くけひも》程の烟管挿《きせるさ》しを、膝《ひざ》の上で結んだり、ほどいたりしている。この畚《ふご》の中の白魚がよじれるような、小さい指の戯れを純一が見ていると、おちゃらもやはり目を偸《ぬす》むようにして、ちょいちょい純一の方を見るのである。
 視線が暫《しばら》く往来《ゆきき》をしているうちに、純一は次第に一種の緊張を感じて来た。どうにか解決を与えなくてはならない問題を与えられているようで、窘迫《きんぱく》と不安とに襲われる。物でも言ったら、この不愉快な縛《いましめ》が解けよう。しかし人の前に来て据わっているものに物は言いにくい。いや。己の前に来たって、旨《うま》く物が言われるかどうだか、少し覚束《おぼつか》ない。一体あんなに己の方を見るようなら、己の前へ来れば好《い》い。己の前へ来たって、外の客のするように、杯を遣《や》るなんという事が出来るかどうだか分からない。どうもそんな事をするのは、己には不自然なようである。強いてしても柄にないようでまずかろう。向うが誰にでも薦めるように、己に酒を薦めるのは造作はない筈である。なぜ己の前に来ないか。そして酌をしないか。向うがそうするには、先ず打勝たなくてはならない何物も存在していないではないか。
 ここまで考えると、純一の心の中《うち》には、例の女性に対する敵意が萌《きざ》して来た。そしてあいつは己を不言の間に飜弄《ほんろう》していると感じた。勿論《もちろん》この感じは的のあなたを射るようなもので、女性に多少の冤屈《えんくつ》を負わせているかも知れないとは、同時に思っている。しかしそんな顧慮は敵意を消滅させるには足らないのである。
 幸におちゃらの純一の上に働かせている誘惑の力が余り強くないのと、二人の間にまだ直接なcollision《コリジョン》を来たしていなかったのとの二つの為めに、純一はこの可哀らしい敵の前で退却の決心をするだけの自由を有していた。
 退路は瀬戸の方向へ取ることになった。それは金鎖の少し先きの席へ瀬戸が戻って、肴を荒しているのを発見したからである。おちゃらのいる所との距離は大して違わないが、向うへ行《ゆ》けば、顔を見合せることだけはないのである。
 純一は誘惑に打勝った人の小さいtriomphe《トリオムフ》を感じて席を起った。しかし純一の起つと同時に、おちゃらも起ってどこかへ行った。
「どうだい」と、瀬戸が目で迎えながら声を掛けた。
「余り面白くもない」と、小声で答えた。
「当り前さ。宴会というものはこんな物なのだ。見給え。又踊るらしいぜ。ひどく勉強しやがる」
 純一が背後《うしろ》を振り返って見ると、さっきの場所に婆あさん連が三味線を持って立っていて、その前でやはりおちゃらと今一人の芸者とが、盛んな支度をしている。上着と下着との裾をぐっとまくって、帯の上に持て来て挟む。おちゃらは緋の友禅摸様の長襦袢、今一人は退紅色の似寄った摸様の長襦袢が、膝から下に現れる。婆あさんが据わって三味線を弾き出す。活溌な踊が始まる。
「なんだろう」と純一が問うた。
「桃太郎だよ。そら。爺いさんと婆あさんとがどうとかしたと云って、歌っているだろう」
 さすが酒を飲む処へは、真先に立って出掛ける瀬戸だけあって、いろんな智識を有していると、純一は感心した。
 女中が鮓《すし》を一皿配って来た。瀬戸はいきなり鮪《まぐろ》の鮓を摘《つ》まんで、一口食って膳の上を見廻した。刺身の醤油を探したのである。ところが刺身は綺麗に退治てしまってあったので、女中が疾《と》っくに醤油も一しょに下げてしまった。跡には殻附の牡蠣《かき》に添えて出した醋《す》があるばかりだ。瀬戸は鮪の鮓にその醋を附けて頬張った。
「どうだい。君は鮓を遣らないか」
「僕はもうさっきの茶碗蒸しで腹が一ぱいになってしまった。酒も余り上等ではないね」
「お客次第なのだよ」
「そうかね」純一はしょさいなさに床の間の方を見廻して云った。「なんだね。あの大きな虎は」
「岸駒《がんく》さ。文部省の展覧会へ出そうもんなら、鑑査で落第するのだ」
「どうだろう。もうそろそろ帰っても好くはあるまいか」
「搆《かま》うものか」
 暫くして純一は黙って席を起った。
「もう帰るのか」と、瀬戸が問うた。
「まあ、様子次第だ」こう云って、座敷の真中を通って、廊下に出て、梯《はしご》を降りた。実際目立たないように帰られたら帰ろう位の考であった。
 梯の下に降りると、丁度席上で見覚えた人が二人便所から出て来た。純一は自分だけ早く帰るのを見られるのが極《き》まりが悪いので、便所へ行った。
 用を足してしまって便所を出ようとしたとき、純一はおちゃらが廊下の柱に靠《よ》り掛かって立っているのを見た。そして何故《なにゆえ》ともなしに、びっくりした。
「もうお帰りなさるの」と云って、おちゃらは純一の顔をじっと見ている。この女は目で笑うことの出来る女であった。瞳に緑いろの反射のある目で。
 おちゃらはしなやかな上半身を前に屈《かが》めて、一歩進んだ。薄赤い女の顔が余り近くなったので、純一はまぶしいように思った。
「こん度はお一人でいらっしゃいな」小さい名刺入の中から名刺を一枚出して純一に渡すのである。
 純一は名刺を受け取ったが、なんとも云うことが出来なかった。それは何事をも考える余裕がなかったからである。
 純一がまだsurprise《シュルプリイズ》の状態から回復しないうちに、おちゃらは身を飜《ひるがえ》して廊下を梯の方へ、足早に去ってしまった。
 純一は手に持ていた名刺を見ずに袂《たもと》に入れて、ぼんやり梯の下まで来て、あたりを見廻した。
 帽や外套《がいとう》を隙間《すきま》もなく載せてある棚の下に、男が四五人火鉢を囲んで蹲《しゃが》んでいる外には誰《たれ》もいない。純一は不安らしい目をして梯を見上げたが、丁度誰も降りては来なかった。この隙《ひま》にと思って、棚の方へ歩み寄った。
「何番様で」一人の男が火鉢を離れて起った。
 純一は合札を出して、帽と外套とを受け取って、寒い玄関に出た。

    
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