て来たのだから、今度は自分の方で気の毒なような心持になった。そして理想主義の看板のような、純一の黒く澄んだ瞳《ひとみ》で、自分の顔の表情を見られるのが頗《すこぶ》る不愉快であった。
この時十七八の、不断着で買物にでも行《い》くというような、廂髪《ひさしがみ》の一寸|愛敬《あいきょう》のある娘が、袖が障るように二人の傍を通って、純一の顔を、気に入った心持を隠さずに現したような見方で見て行った。瀬戸はその娘の肉附の好《い》い体をじっと見て、慌てたように純一の顔に視線を移した。
「君はどこへ行《い》くのだい」
「路花《ろか》に逢おうと思って行った処が、十時でなけりゃあ起きないということだから、この辺《へん》をさっきからぶらぶらしている」
「大石路花か。なんでもひどく無愛想な奴だということだ。やっぱり君は小説家志願でいるのだね」
「どうなるか知れはしないよ」
「君は財産家だから、なんでも好きな事を遣《や》るが好《い》いさ。紹介でもあるのかい」
「うむ。君が東京へ出てから中学へ来た田中という先生があるのだ。校友会で心易くなって、僕の処へ遊びに来たのだ。その先生が大石の同窓だもんだから、紹介状を
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