うお》の血を蓄えていたのではないかとさえ思われるようであった。
 しかしそれは体の感じであって、思想は混沌《こんとん》としていた。己は最初は大股《おおまた》に歩いた。薩摩下駄が寒い夜の土を踏んで高い音を立てた。そのうちに歩調が段々に緩くなって、鶯坂《うぐいすざか》の上を西へ曲って、石燈籠《いしどうろう》の列をなしている、お霊屋《たまや》の前を通る頃には、それまで膚《はだえ》を燃やしていた血がどこかへ流れて行ってしまって、自分の顔の蒼《あお》くなって、膚に粟《あわ》を生ずるのを感じた。それと同時に思想が段々秩序を恢復《かいふく》して来た。澄んだ喜びが涌いて来た。譬《たと》えばparoxysme《パロクシスム》をなして発作する病を持っているものが、その発作の経過し去った後《のち》に、安堵《あんど》の思をするような工合であった。己は手に一巻のラシイヌを持っていた。そしてそれを返しに行《い》かなくてはならないという義務が、格別愉快な義務でもないように思われた。もうあの目が魔力を逞《たくましゅ》うして、自分を引き寄せることが出来なくなったのではあるまいかと思われた。
 突然妙な事が己の記憶から浮
前へ 次へ
全282ページ中90ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング