さんが云われた。「おかしいでしょう。お婆あさんがこんな派手な物を着て。わたしは昔の余所行《よそゆき》を今の不断着にしますの」と云われた。己はこの詞を聞いて、始《はじめ》てなる程そうかと思った。華美に過ぎるというような感じは己にはなかった。己には只着物の美しい色が、奥さんの容姿《すがた》には好く調和しているが、どこやら世間並でない処があるというように思われたばかりであった。
己の日記の筆はまだ迂路を取っている。己は怯懦である。
久しく棄てて顧みなかったこの日記を開いて、筆を把《と》ってこれに臨んだのは何の為めであるか。或る閲歴を書こうと思ったからではないか。なぜその閲歴を為す勇気があって、それを書く勇気がないか。それとも勇気があって敢《あえ》て為したのではなくて、人に余儀なくせられて漫《みだ》りに為したのであるか。漫りに為して恥じないのであるか。
己は根岸の家の鉄の扉を走って出たときは血が涌《わ》き立っていた。そして何か分からない爽快《そうかい》を感じていた。一種の力の感じを持っていた。あの時の自分は平生の自分とは別であって、平生の自分はあの時の状態と比べると、脈のうちに冷たい魚《
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