ている中へ、意志が容喙《ようかい》した。己は往って見たかった。その往って見たかったというのは、書物も見たかったには相違ない。しかし容赦なく自己を解剖して見たら、どうもそればかりであったとは云われまい。
 己はあの奥さんの目の奥の秘密が知りたかったのだ。
 有楽座から帰ってから、己はあの目を折々思出した。どうかすると半ば意識せずに思い出していて、それを意識してはっと思ったこともある。言わばあの目が己を追い掛けていた。或《あるい》はあの目が己を引き寄せようとしていたと云っても好《い》いかも知れない。実は理性の争《あらそい》に、意志が容喙したと云うのは、主客を顛倒《てんどう》した話で、その理性の争というのは、あの目の磁石力に対する、無力なる抗抵《こうてい》に過ぎなかったかも知れない。
 とうとうその抗抵に意志の打ち勝ってしまったのが今日であった。己は根岸へ出掛けた。
 家《うち》は直ぐ知れた。平らに苅《か》り込んだ※[#「※」は「木+諸」、第3水準1−86−25、71−8]《かし》の木が高く黒板塀の上に聳《そび》えているのが、何かの秘密を蔵しているかと思われるような、外観の陰気な邸であった。
前へ 次へ
全282ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング