にしかならない。まだなかなか大石の目の醒《さ》める時刻にはならないので、好《い》い加減な横町を、上野の山の方へ曲った。狭い町の両側は穢《きた》ない長屋で、塩煎餅《しおせんべい》を焼いている店や、小さい荒物屋がある。物置にしてある小屋の開戸《ひらきど》が半分|開《あ》いている為めに、身を横にして通らねばならない処さえある。勾配《こうばい》のない溝に、芥《ごみ》が落ちて水が淀《よど》んでいる。血色の悪い、瘠《や》せこけた子供がうろうろしているのを見ると、いたずらをする元気もないように思われる。純一は国なんぞにはこんな哀《あわれ》な所はないと思った。
曲りくねって行《ゆ》くうちに、小川《こがわ》に掛けた板橋を渡って、田圃《たんぼ》が半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家の疎《まばら》に立っている辺《あたり》に出た。一軒の家の横側に、ペンキの大字で楽器製造所と書いてある。成程、こんな物のあるのも国と違う所だと、純一は驚いて見て通った。
ふいと墓地の横手を谷中《やなか》の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た。灰色の雲のある処から、ない処へ日が廻《まわ》って、黄いろい、寂しい暖み
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