らして逆に急流を溯《さかのぼ》らせられるような感じがして、それから暫くの間は、独りで深い思量に耽《ふけ》った。
 譬《たと》えば長い間集めた物を、一々心覚えをして箱に入れて置いたのを、人に上を下へと掻《か》き交ぜられたような物である。それを元の通りにするのはむずかしい。いや、元の通りにしようなんぞとは思わない。元の通りでなく、どうにか整頓しようと思う。そしてそれが出来ないのである。出来ないのは無理もない。そんな整頓は固《もと》より一朝一夕に出来る筈の整頓ではないのである。純一の耳には拊石の詞が遠い遠い物音のように、意味のない雑音になって聞えている。
 純一はこの雑音を聞いているうちに、ふと聴衆の動揺を感じて、殆ど無意識に耳を欹《そばだ》てると、丁度拊石がこう云っていた。
「ゾラのClaude《クロオド》は芸術を求める。イブセンのブラントは理想を求める。その求めるものの為めに、妻をも子をも犠牲にして顧みない。そして自分も滅びる。そこを藪睨《やぶにらみ》に睨んで、ブラントを諷刺だとさえ云ったものがある。実はイブセンは大真面目である。大真面目で向上の一路を示している。悉皆《しっかい》か絶無か
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