た」という様な心持である。これを聞いている間は、純一もこれまで自分が舟に棹《さお》さして下って行く順流を、演説者も同舟の人になって下って行くように感じていた。ところが、拊石は話頭を一転して、「これがイブセンの自己の一面です、Peer Gynt《ペエル ギント》に詩人的に発揮している自己の一面です、世間的自己です」と結んで置いて、別にイブセンには最初から他の一面の自己があるということを言った。「若しこの一面がなかったら、イブセンは放縦《ほうじゅう》を説くに過ぎない。イブセンはそんな人物ではない。イブセンには別に出世間的自己があって、始終向上して行《ゆ》こうとする。それがBrand《ブラント》に於いて発揮せられている。イブセンは何の為めに習慣の朽ちたる索《つな》を引きちぎって棄てるか。ここに自由を得て、身を泥土《でいど》に委《ゆだ》ねようとするのではない。強い翼に風を切って、高く遠く飛ぼうとするのである」純一はこれを聞いていて、その語気が少しも荘重に聞かせようとする様子でなく、依然として平坦な会話の調子を維持しているにも拘《かかわ》らず、無理に自分の乗っている船の舳先《へさき》を旋《めぐ》
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