、瀬戸は忙がしそうに立って行った。呼んだのは、初め這入ったとき瀬戸が話をしていた男である。髪を長く伸《のば》した、色の蒼い男である。又何か小声で熱心に話し出した。
人が次第に殖えて来て、それが必ずこの机の傍に来るので、純一は元の席に帰った。余り上《あが》り口《ぐち》に近いので、自分の敷いていた座布団だけはまだ人に占領せられずにあったのである。そこで据わろうと思うと半分ばかり飲みさしてあった茶碗をひっくり返した。純一は少し慌てて、「これは失敬しました」と云って袂《たもと》からハンカチイフを出して拭いた。
「畳が驚くでしょう」
こう云って茶碗の主は、純一が銀座のどこやらの店で、ふいと一番善いのをと云って買った、フランドルのバチストで拵《こしら》えたハンカチイフに目を注《つ》けている。この男は最初から柱に倚《よ》り掛かって、黙って人の話を聞きながら、折々純一の顔を見ていたのである。大学の制服の、襟にMの字の附いたのを着た、体格の立派な男である。
一寸《ちょっと》調子の変った返事なので、畳よりは純一の方が驚いて顔を見ていると、「君も画家ですか」と云った。「いえ。そうではありません。まだ田
前へ
次へ
全282ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング