舎から出たばかりで、なんにも遣《や》っていないのです」
純一はこう云って、名刺を学生にわたした。学生は、「名刺があったかしらん」とつぶやきながら隠しを探って、小さい名刺を出して純一にくれた。大村荘之助としてある。大村はこう云った。
「僕は医者になるのだが、文学好だもんだから、折々出掛けて来ますよ。君は外国語は何を遣っています」
「フランスを少しばかり習いました」
「何を読んでいます」
「フロオベル、モオパッサン、それから、ブウルジェエ、ベルジックのマアテルリンクなんぞを些《すこし》ばかり読みました」
「らくに読めますか」
「ええ。マアテルリンクなんぞは、脚本は分りますが、論文はむつかしくて困ります」
「どうむつかしいのです」
「なんだか要点が掴《つか》まえにくいようで」
「そうでしょう」
大村の顔を、微《かす》かな微笑が掠《かす》めて過ぎた。嘲《あざけり》の分子なんぞは少しも含まない、温い微笑である。感激し易い青年の心は、何故《なにゆえ》ともなくこの人を頼もしく思った。作品を読んで慕って来た大石に逢ったときは、その人が自分の想像に画《えが》いていた人と違ってはいないのに、どうも険し
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