と自分の立っている向《むこ》うが岡《おか》との間の人家の群《むれ》が見える。ここで目に映ずるだけの人家でも、故郷の町程の大《おおき》さはあるように思われるのである。純一は暫《しばら》く眺めていて、深い呼吸をした。
 坂を降りて左側の鳥居を這入《はい》る。花崗岩《みかげいし》を敷いてある道を根津神社の方へ行《ゆ》く。下駄の磬《けい》のように鳴るのが、好《い》い心持である。剥《は》げた木像の据えてある随身門《ずいじんもん》から内を、古風な瑞籬《たまがき》で囲んである。故郷の家で、お祖母様《ばあさま》のお部屋に、錦絵《にしきえ》の屏風《びょうぶ》があった。その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣《たまがき》があったと思う。社殿の縁には、ねんねこ絆纏《ばんてん》の中へ赤ん坊を負《おぶ》って、手拭《てぬぐい》の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦《すく》めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝《みぞ》のような池があって、向うの小高い処には常磐木《ときわぎ》の間に葉の黄ばんだ木の雑《まじ》った木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見る
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