西語を習いに行《ゆ》く、少数の青年の外には、いつまで立っても、この中へ這入って来る人はない。ベルタンさんは老いぼれた料理人兼小使を一人使って、がらんとした、稍《やや》大きい家に住んでいるのだから、どこも彼処《かしこ》も埃《ほこり》だらけで、白昼に鼠《ねずみ》が駈け廻っている。
 ベルタンさんは長崎から買って来たという大きいデスクに、千八百五十何年などという年号の書いてある、クロオスの色の赤だか黒だか分からなくなった書物を、乱雑に積み上げて置いている。その側には食い掛けた腸詰や乾酪《かんらく》を載せた皿が、不精にも勝手へ下げずに、国から来たFigaro《フィガロ》の反古《ほご》を被《かぶ》せて置いてある。虎斑《とらふ》の猫が一匹積み上げた書物の上に飛び上がって、そこで香箱を作って、腸詰の※[#「※」は「勹+二」、第3水準1−14−75、34−3]《におい》を嗅《か》いでいる。
 その向うに、茶褐色の長い髪を、白い広い額から、背後《うしろ》へ掻《か》き上げて、例のタラアルまがいの黒い服を着て、お祖父《じい》さん椅子に、誰《たれ》やらに貰ったという、北海道の狐の皮を掛けて、ベルタンさんが据わ
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