袖の八口《やつくち》から緋縮緬《ひぢりめん》の襦袢《じゅばん》の袖が飜《こぼ》れ出ている。
 飲み掛けた茶を下に置いて、これも黙ってお辞儀をした純一の顔は赤くなったが、お雪さんの方は却《かえ》って平気である。そして稍々《やや》身を反らせているかと思われる位に、真直に立っている。純一はそれを見て、何だか人に逼《せま》るような、戦《たたかい》を挑むような態度だと感じたのである。
 純一は何とか云わなくてはならないと思ったが、どうも詞《ことば》が見付からなかった。そして茶碗を取り上げて、茶を一口に飲んだ。婆あさんが詞を挟んだ。
「お嬢様は好く画を見にいらっしゃいましたが、小泉さんは御本をお読みなさるのですから、折々いらっしゃって御本のお話をお聞きなさいますと宜しゅうございます。御本のお話はお好きでございましょう」
「ええ」
 純一は、「僕は本は余り読みません」と云った。言って了《しま》うと自分で、まあ、何と云う馬鹿気た事を言ったものだろうと思った。そしてお雪さんの感情を害しはしなかったかと思って、気色《けしき》を伺った。しかしお雪さんは相変らず口元に微笑を湛《たた》えているのである。
 その
前へ 次へ
全282ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング