目を思い出させた。純一は先の日にちらと見たばかりで、その後この娘の事を一度も思い出さずにいたが、今又ふいとその顔を見て、いつの間にか余程親しくなっているような心持がした。意識の閾《しきい》の下を、この娘の影が往来していたのかも知れない。婆あさんはこう云った。
「おや、いらっしゃいまし。安《やす》は団子坂まで買物に参りましたが、もう直《じき》に帰って参りましょう。まあ一寸《ちょっと》こちらへいらっしゃいまし」
「往《い》っても好くって」
「ええええ。あちらから廻っていらっしゃいまし」
 少女の頭は萩の茂みの蔭に隠れた。婆あさんは純一に、少女が中沢という銀行頭取の娘で、近所の別荘にいるということ、娵の安がもと別荘で小間使をしていて娘と仲好《なかよし》だということを話した。
 その隙《ひま》に植木屋の勝手の方へ廻ったお雪さんは、飛石伝いに離れの前に来た。中沢の娘はお雪さんというのである。
 婆あさんが、「この方が今度越していらっしゃった小泉さんという方でございます」というと、お雪さんは黙ってお辞儀をして、純一の顔をじいっと見て立っている。着物も羽織もくすんだ色の銘撰《めいせん》であるが、長い
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