無いようで、その有るようなものは雑然としていて、どこを押えて見ようという処がない。馬鹿らしくなって、一旦持った筆を置いた。
天長節の朝であった。目が醒《さ》めて見ると、四畳半の東窓の戸の隙《すき》から、オレンジ色の日が枕の処まで差し込んで、細かい塵《ちり》が活溌《かっぱつ》に跳《おど》っている。枕元に置いて寝た時計を取って見れば、六時である。
純一は国にいるとき、学校へ御真影を拝みに行ったことを思い出した。そしてふいと青山の練兵|場《ば》へ行って見ようかと思ったが、すぐに又自分で自分を打ち消した。兵隊の沢山並んで歩くのを見たってつまらないと思ったのである。
そのうち婆あさんが朝飯を運んで来たので、純一が食べていると、「お婆あさん」と、優しい声で呼ぶのが聞えた。純一の目は婆あさんの目と一しょに、その声の方角を辿って、南側の戸口の処から外へ、ダアリアの花のあたりまで行くと、この家を借りた日に見た少女の頭が、同じ処に見えている。リボンはやはりクリイム色で容赦なく※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、26−10]《みひら》いた大きい目は、純一が宮島へ詣《まい》ったとき見た鹿の
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