ぞは沢山あるだろう。そんな事には頓着《とんじゃく》しないで遣《や》っている。要するに頭次第だと云った。それから、とにかく余り生産的な為事《しごと》ではないが、その方はどう思っているかと問われたので、純一が資産のある家の一人息子に生れて、パンの為めに働くには及ばない身の上だと話すと、大石は笑って、それでは生活難と闘わないでも済むから、一廉《ひとかど》の労力の節減は出来るが、その代り刺戟《しげき》を受けることが少いから、うっかりすると成功の道を踏みはずすだろうと云った。純一は何の掴《つか》まえ処もない話だと思って稍《や》や失望したが、帰ってから考えて見れば、大石の言ったより外に、別に何物かがあろうと思ったのが間違で、そんな物はありようがないのだと悟った。そしてなんとなく寂しいような、心細いような心持がした。一度は、家主《いえぬし》の植長《うえちょう》がどこからか買い集めて来てくれた家具の一つの唐机《とうづくえ》に向って、その書いて見るということに著手《ちゃくしゅ》しようとして見たが、頭次第だと云う頭が、どうも空虚で、何を書いて好《い》いか分らない。東京に出てからの感じも、何物かが有るようで
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