ネ部屋を借りて、久し振に少し書き始めて見たいものだ。いや。そうだっけ。それでは切角のあの実行が出来ない。ええ糞《くそ》。坂井の奥さんだの岡村だのと云う奴が厄介だな。大村の言草ではないが、Der Teufel hole sie!《デル トイフェル ホオレ ジイ》だ。好《い》いわ。早く東京へ帰って書こう。
 純一は夜着をはね退《の》けて、起きて敷布団の上に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、火鉢に火のないのをも忘れて、考えている。いよいよ書こうと思い立つと共に、現在の自分の周囲も、過去に自分の閲して来た事も、総て価値を失ってしまって、咫尺《しせき》の間《あいだ》の福住の離れに、美しい肉の塊が横《よこた》わっているのがなんだと云うような気がするのである。紅《くれない》が両の頬に潮《ちょう》して、大きい目が耀《かがや》いている。純一はこれまで物を書き出す時、興奮を感じたことは度々あったが、今のような、夕立の前の雲が電気に飽きているような、気分の充実を感じたことはない。
 純一が書こうと思っている物は、現今の流行とは少し方角を異にしている。なぜと云うに、そのsujet《シュジェエ》は国の亡くなったお祖
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