ずれに、吉原の電灯が幻のように、霧の海に漂っている。暫く立って眺めているうちに、公園で十一時の鐘が鳴った。巡査が一人根岸から上がって来て、純一を角灯で照して見て、暫く立ち留まって見ていて、お霊屋《たまや》の方へ行った。
純一の視線は根岸の人家の黒い屋根の上を辿《たど》っている。坂の両側の灌木《かんぼく》と、お霊屋の背後の森とに遮られて、根岸の大部分は見えないのである。
坂井夫人の家はどの辺だろうと、ふと思った。そして温い血の波が湧《わ》き立って、冷たくなっている耳や鼻や、手足の尖《さき》までも漲《みなぎ》り渡るような心持がした。
坂井夫人を尋ねてから、もう二十日ばかりになっている。純一は内に据わっていても、外を歩いていても、おりおり空想がその人の俤《おもかげ》を想い浮べさせることがある。これまで対象のない係恋《あこがれ》に襲われたことのあるに比べて見れば、この空想の戯れは度数も多く光彩も濃いので、純一はこれまで知らなかった苦痛を感ずるのである。
身の周囲《まわり》を立ち籠《こ》めている霧が、領《えり》や袖や口から潜《もぐ》り込むかと思うような晩であるのに、純一の肌は燃えている。
前へ
次へ
全282ページ中135ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング