た。
「わたくし二十七日に立って、箱根の福住《ふくずみ》へ参りますの。一人で参っておりますから、お暇ならいらっしゃいましな」
「さようですね。僕は少し遣って見ようかと思っている為事《しごと》がありますから、どうなりますか分りません。もう大変遅くなりました」
「でもお暇がございましたらね」
 奥さんが、傍に這っている、絹糸を巻いた導線の尖の控鈕《ぼたん》を押すと、遠くにベルの鳴る音がした。廊下の足音が暫くの間はっきり聞えていてから、次の間まで来たしづえの御用を伺う声がした。呼ばなければ来ないように訓練してあるのだなと、己は思った。
 しづえは己を書棚のある洋室へ案内するのである。己は迂濶《うかつ》にも、借りている一巻を返すことに就いてはいろいろ考えていたが、跡を借《かり》るということに就いてはちっとも考えていなかった。己は思案する暇《ひま》もなく、口実の書物を取り換えに座を起った。打勝たれた人の腑甲斐《ふがい》ない感じが、己の胸を刺した。
 先きに立って這入って、電燈を点じてくれたしづえと一しょに、己は洋室にいたとき、意識の海がまだ波立っていた為めか、お雪さんと一しょにいるより、一層強い窘迫《きんぱく》と興奮とを感じた。しかしこの娘はフランスの小説や脚本にある部屋附きの女中とは違って、おとなしく、つつましやかに、入口《いりくち》の傍に立ち留まって、両手の指を緋鹿子《ひがのこ》の帯上げの上の処で、からみ合わせていた。こういう時に恐るべき微笑もせずに、極めて真面目に。
 己は選びもせずに、ラシイヌの外《ほか》の一巻を抽《ぬ》き出して、持《も》て来た一巻を代りに入れて置いて、しづえと一しょに洋室を出た。
 己を悩ました質《しち》の、ラシイヌの一巻は依然として己の手の中《うち》に残ったのである。そして又己を悩まさなくては済まないだろう。
 奥さんの部屋へ、暇乞《いとまごい》に覗くと、奥さんは起って送りに出た。上草履を直したしづえは、廊下の曲り角で姿の見えなくなる程距離を置いて、跡から附いて来た。
「お暇があったら箱根へいらっしゃいましね」と、静かな緩い語気で、奥さんは玄関に立っていて繰り返した。
「ええ」と云って、己は奥さんの姿に最後の一瞥《いちべつ》を送った。
 髪の毛一筋も乱れていない。着物の襟をきちんと正して立っている、しなやかな姿が、又端なく己の反感を促した。敵は己を箱根へ誘致せずには置かないかなと、己は心に思いながら右の手に持っていた帽を被って出た。
 空は青く晴れて、低い処を濃い霧の立ち籠《こ》めている根岸の小道を歩きながら、己は坂井夫人の人と為《な》りを思った。その時己の記憶の表面へ、力強く他の写象を排して浮き出して来たのは、ベルジック文壇の耆宿《きしゅく》Lemonnier《ルモンニエエ》の書いたAude《オオド》が事であった。あの読んだ時に、女というものの一面を余りに誇張して書いたらしく感じたオオドのような女も、坂井夫人が有る以上は、決して無いとは云われない。
 恥辱のペエジはここに尽きる。
 己は拙《まず》い小説のような日記を書いた。

     十六

 十二月二十五日になった。大抵腹を立てるような事はあるまいと、純一の推測していた瀬戸が、一昨日《おとつい》谷中の借家へにこにこして来て、今夜|亀清楼《かめせいろう》である同県人の忘年会に出ろと勧めたのである。純一は旧主人の高縄《たかなわ》の邸《やしき》へ名刺だけは出して置いたが、余り同県人の交際を求めようとはしないでいるので、最初断ろうとした。しかし瀬戸が勧めて已《や》まない。会に出る人のうちに、いろいろな階級、いろいろな職業の人があるのだから、何か書こうとしている純一が為めには、面白い観察をすることが出来るに違いないと云うのである。純一も別に明日《あす》何をしようという用事が極《き》まってもいなかったので、とうとう会釈負けをしてしまった。
 丁度瀬戸のいるところへ、植長の上《かみ》さんのお安《やす》というのが、亭主の誕生日なので拵《こしら》えたと云って赤飯を重箱に入れて、煮染《にしめ》を添えて持って来た。何も馳走がなかったのに、丁度|好《い》いというので、純一は茶碗や皿を持て来て貰うことにして、瀬戸に出すと、上さんは茶を入れてくれた。黒繻子《くろじゅす》の領《えり》の掛かったねんねこ絆纏《ばんてん》を着て、頭を櫛巻《くしまき》にした安の姿を、瀬戸は無遠慮に眺めて、「こんなお上さんの世話を焼いてくれる内があるなら、僕なんぞも借りたいものだ」と云った。「田舎者で一向届きませんが、母がまめに働くので、小泉さんのお世話は好くいたします」と謙遜《けんそん》する。
「なに、届かないものか。紺足袋を穿《は》いている処を見ても、稼人《かせぎにん》だということは分かる」と云う。

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