の頃あなた何をしていらっしって」だのというような、無意味な問を発する。己も勉めて無意味な返事をする。己は何か言いながら、覚えず奥さんの顔とお雪さんの顔とを較べて見た。
 まあ、なんという違いようだろう。お雪さんの、血の急流が毛細管の中を奔《はし》っているような、ふっくりしてすべっこくない顔には、刹那も表情の変化の絶える隙《ひま》がない。埒《らち》もない対話をしているのに、一一《いちいち》の詞《ことば》に応じて、一一の表情筋の顫動《せんどう》が現れる。Naif《ナイイフ》な小曲にsensible《サンシイブル》な伴奏がある。
 それに較べて見ると、青み掛かって白い、希臘《ギリシャ》風に正しいとでも云いたいような奥さんの顔は、殆どmasque《マスク》である。仮面である。表情の影を強いて尋ねる触角は尋ね尋ねて、いつでも大きい濃い褐色の瞳《ひとみ》に達してそこに止まる。この奥にばかり何物かがある。これがあるので、奥さんの顔には今にも雷雨が来《こ》ようかという夏の空の、電気に飽いた重くるしさがある。鷙鳥《しちょう》や猛獣の物をねらう目だと云いたいが、そんなに獰猛《どうもう》なのではない。Nymphe《ニンフ》というものが熱帯の海にいたら、こんな目をしているだろうか。これがなかったら奥さんの顔をmine de mort《ミイヌ ド モオル》と云っても好かろう。美しい死人の顔色と云っても好かろう。
 そういう感じをいよいよ強めるのは、この目にだけある唯一の表情が談話と合一しない事である。口は口の詞を語って、目は目の詞を語る。謎の目を一層謎ならしめて、その持主をSphinx《スファンクス》にする処はここにある。
 或る神学者がdogma《ドグマ》は詞だと云うと、或る他の神学者が詞は詞だが、「強いられたる」詞だと云ったと聞いたが、奥さんの目の謎に己の与えた解釈も強いられたる解釈である。
 己がこの日記を今の形のままでか、又はその形を改めてか、世に公にする時が来るだろうか。それはまだ解釈せられない疑問である。仮に他日これを読む人があるとして、己はここでその読む人に言う。「読者よ。僕は君に或る不可思議な告白をせねばならない。そしてその告白の端緒はこれから開ける」
 奥さんの目の謎は伝染する。その謎の詞に己の目も応答しなくてはならなくなる。
 夜の静けさと闇とに飽いている上野の森を背に負うた、根岸の家の一間で、電燈は軟《やわらか》い明りを湛《たた》え、火鉢の火が被った白い灰の下から、羅《うすぎぬ》を漏る肌の光のように、優しい温《あたた》まりを送る時、奥さんと己とは、汽車の座席やホテルの食卓を偶然共にした旅人と旅人とが語り交すような対話をしている。万人に公開しても好《い》いような対話である。初度の会見の折の出来事を閲《けみ》して来た己が、決して予期していなかった対話である。
 それと同時に奥さんはその口にする詞の一語一語を目の詞で打消して、「あなたとわたくしとの間では、そんな事はどうでも好うございまさあねえ」とでもいうように、ironiquement《イロニックマン》に打消して全く別様な話をしている。Une persuasion puissante et chaleureuse《ユヌ ペルシュアジョン ピュイッサント エエ シャリヨナリヨオズ》である。そして己の目は無慙《むざん》に、抗抵なくこの話に引き入れられて、同じ詞を語る。
 席と席とは二三尺を隔てて、己の手を翳《かざ》しているのと、奥さんに閑却せられているのと、二つの火鉢が中に置いてある。そして目は吸引し、霊は回抱する。一団の火焔《かえん》が二人を裹《つつ》んでしまう。
 己はこういう時間の非常に長いのを感じた。その時間は苦痛の時間である。そして或る瞬間に、今あからさまに覚える苦痛を、この奥さんを知ってからは、意識の下で絶間なく、微《かすか》に覚えているのであったという発見が、稲妻のように、地獄の焔《ほのお》と烟《けむり》とに巻かれている、己の意識を掠《かす》めて過ぎた。
 この間《あいだ》に苦痛は次第に奥さんを敵として見させるようになった。時間が延びて行《ゆ》くに連れて、この感じが段々長じて来た。若《も》し己が強烈な意志を持っていたならば、この時席を蹴《け》て起《た》って帰っただろう。そして奥さんの白い滑かな頬を批《う》たずに帰ったのを遺憾としただろう。
 突然なんの著明な動機もなく、なんの過渡《かと》もなしに。(この下日記の紙一枚引き裂きあり)
 その時己は奥さんの目の中《うち》の微笑が、凱歌《がいか》を奏するような笑《わらい》に変じているのを見た。そして一たび断《た》えた無意味な、余所々々《よそよそ》しい対話が又続けられた。奥さんを敵とする己の感じは愈々《いよいよ》強まった。奥さんは云っ
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