わたくし共の田舎では、女でも皆紺足袋を穿きます」と説明する。その田舎というのが不思議だ。お上さんのような、意気な女が田舎者である筈がないと云う。とうとう安が故郷は銚子だと打明けた。段々聞いて見ると、瀬戸が写生旅行に行ったとき、安の里の町内に泊ったことがあったそうだ。いろいろ銚子の話をして、安が帰った跡で、瀬戸が狡猾《こうかつ》らしい顔をして、「明日柳橋へ行ったって、僕の材料はないが、君の所には惜しい材料がある」と云った。どういうわけかと問うと、芸者なんぞは、お白いや頬紅のeffet《エフェエ》を研究するには好《い》いかも知れないが、君の家主《いえぬし》のお上さんのような生地《きじ》の女はあの仲間にはないと云った。それから芸者に美人があるとか無いとかいう議論になった。その議論の結果は芸者に美人がないではないが、皆拵えたような表情をしていて、芸者というtype《チイプ》を研究する粉本《ふんぽん》にはなっても、女という自然をあの中に見出すことは出来ないということになった。この「女という自然」は慥《たしか》に安に於いて見出すことが出来ると瀬戸に注意せられて、純一も首肯せざるを得なかった。話し草臥《くたび》れて瀬戸が帰った。純一は一人になってこんな事を思った。一体己にはesprit non preocupe[#「preocupe」の二つの「e」は「´」付き]《エスプリイ ノン プレオキュペエ》が闕《か》けている。安という女が瀬戸のfrivole《フリヴオル》な目で発見せられるまで、己の目には唯家主の娵《よめ》というものが写っていた。人妻が写っていた。それであの義務心の強そうな、好んで何物をも犠牲にするような性格や、その性格を現わしている、忠実な、甲斐甲斐しい一般現象に対しては同情を有していたが、どんな顔をしているということにさえも、ろくろく気が附かなかった。瀬戸に注意せられてから、あの顔を好く思い浮べて見ると、田舎生れの小間使上がりで、植木屋の女房になっている、あの安がどこかに美人の骨相を持っている。色艶《いろつや》は悪い。身綺麗《みぎれい》にはしていても髪容《かみかたち》に搆《かま》わない。それなのにあの円顔の目と口とには、複製図で見たMonna Lisa《モンナ リイザ》の媚《こび》がある。芸者やなんぞの拵えた表情でない表情を、安は有しているに違いない。思って見れば、抽象的な議論程容易なものは無い。瀬戸でさえあんな議論をするが、明治時代の民間の女と明治時代の芸者とを、簡単な、しかも典型的な表情や姿勢で、現わしている画は少いようだ。明治時代はまだ一人のConstantin Guys《コンスタンタン ギス》を生まないのである。自分も因襲の束縛を受けない目だけをでも持ちたいものだ。今のような事では、芸術家として世に立つ資格がないと、純一は反省した。五時頃に瀬戸が誘いに来た。
「きょうはお安さんがはんべっていないじゃないか」と、厭《いや》な笑顔をして云う。
「めったに来やしない」
 純一は生帳面《きちょうめん》な、気の利かない返事をしながら、若し瀬戸の来た時に、お雪さんでもいたら、どんなに冷かされるか、知れたものではないと、気味悪く思った。中沢の奥さんが箪笥《たんす》を買って遣《や》って、内から嫁入をさせたとき、奥さんに美しく化粧をして貰って、別な人のようになって出て来て、いつも友達のようにしていたのが、叮嚀《ていねい》に手を衝《つ》いて暇乞をすると、暫《しばら》く見ていたお雪さんが、おいおい泣き出して皆を困らせたという話や、それから中沢家で、安の事を今でもお娵の安と云っているという話が記憶に浮き出して来た。
 支度をして待っていた純一は、瀬戸と一しょに出て、上野公園の冬木立の間を抜けて、広小路で電車に乗った。
 須田町で九段両国の電車に乗り換えると、不格好な外套《がいとう》を被《き》て、この頃見馴れない山高帽を被《かぶ》った、酒飲みらしい老人の、腰を掛けている前へ行って、瀬戸がお辞儀をして、「これからお出掛ですか、わたくしも参るところで」と云っている。
 瀬戸は純一を直ぐにその老人に紹介した。老人はY県出身の漢学者で、高山先生という人であった。美術学校では、岡倉時代からいろいろな学者に、科外講義に出て貰って、講義録を出版している。高山先生もその講義に来たとき、同県人の生徒だというので、瀬戸は近附きになったのである。
 高山先生は宮内庁に勤めている。漢学者で仏典も精《くわ》しい。※[#「※」は「登+おおざと」、第3水準1−92−80、130−15]完白《とうかんぱく》風の篆書《てんしょ》を書く。漢文が出来て、Y県人の碑銘を多く撰《えら》んでいる。純一も名は聞いていたのである。
 暫くして電車が透いたので、純一は瀬戸と並んで腰を掛けた。
 瀬
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