十三

 純一が日記は又白い処ばかり多くなった。いつの間にか十二月も半ばを過ぎている。珍らしい晴天続きで、国で噂《うわさ》に聞いたような、東京の寒さをまだ感じたことがない。
 植長の庭の菊も切られてしまって、久しく咲いていた山茶花《さざんか》までが散り尽した。もう色のあるものと云っては、常磐樹《ときわぎ》に交って、梅もどきやなんぞのような、赤い実のなっている木が、あちこちに残っているばかりである。
 中沢のお雪さんが余り久しく見えないと思いながら、問いもせずにいると、或る日婆あさんがこんな事を話した。お雪さんに小さい妹がある。それがジフテリイになって大学の病院に這入った。ジフテリイは血清注射で直ったが、跡が腎臓炎になって、なかなか退院することが出来ない。お雪さんは稽古《けいこ》に行った帰りに、毎日見舞に行って、遅くなって帰る。休日には朝早くからおもちゃなんぞを買って行って、終日附いているということである。「ほんとにあんな気立ての好《い》い子ってありません」と婆あさんが褒めて話した。
 この頃純一は久し振りで一度大石路花を尋ねた。下宿が小石川の富坂上《とみざかうえ》に変っていた。純一はまだ何一つ纏《まと》まった事を始めずにいるのを恥じて、若《も》し行《い》きなり何をしているかと問われはすまいかと心配して行ったが、そんな事は少しも問わない。寧《むし》ろなんにもしないのが当り前だとでも思っているらしく感ぜられた。丁度這入って行ったとき、机の上に一ぱい原稿紙を散らかして、何か書き掛けていたらしいので「お邪魔なら又参ります」と云うと「搆《かま》わないよ、器械的に書いているのだから、いつでも已《や》めて、いつでも続けられる。重宝な作品だ」と真面目な顔で云った。そしていつもの詞《ことば》少なに応答をする癖とまるで変って、自分の目下の境遇を話して聞せてくれた。それが極端に冷静な調子で、自分はなんの痛癢《つうよう》をも感ぜずに、第三者の出来事を話しているように聞えるのである。純一は直ぐに、その話が今書き掛けている作品と密接の関係を有しているのだということを悟った。話しながら、事柄の経過の糸筋を整理しているらしいのである。話している相手が誰《だれ》でも搆わないらしいのである。
 路花の書いている東京新聞は、初め社会の下層を読者にして、平易な事を平易な文で書いていた小新聞《こしんぶん》に起って、次第に品位を高めたものであった。記者と共に調子は幾度も変った。しかし近年のように、文芸方面に向って真面目に活動したことはなかった。それは所謂自然主義の唯一の機関と云っても好《い》いようになってからの事である。ところが社主が亡くなって、新聞は遺産として、親から子の手に渡った。これまでの新聞の発展は、社主が意識して遂げさせた発展ではなかった。思想の新しい記者が偶然這入る。学生やなんぞのような若い読者が偶然殖える。記者は知らず識《し》らず多数の新しい読者に迎合するようになる。こういう交互の作用がいつか自然主義の機関を成就させたのであった。それを故《もと》の社主は放任していたのである。新聞は新しい社主の手に渡った。少壮政治家の鉄のような腕《かいな》が意識ある意志によって揮《ふる》われた。社中のものの話に聞けば、あの背《せい》の低い、肥満した体を巴里為立《パリイじた》てのフロックコオトに包んで、鋭い目の周囲に横着そうな微笑を湛《たた》えた新社主|誉田《ほんだ》男爵は、欧羅巴《ヨオロッパ》の某大国のCorps diplomatique《コオル ジプロマチック》で鍛えて来た社交的|伎倆《ぎりょう》を逞《たくましゅ》うして、或る夜一代の名士を華族会館の食堂に羅致《らち》したのである。今後は賛助員の名の下に、社会のあらゆる方面の記事を東京新聞に寄せることになったという、この名士とはどんな人々であったか。帝国大学の総ての分科の第一流の教授連がその過半を占めていたのである。新聞はこれからacademique[#一つ目の「e」は「´」付き]《アカデミック》になるだろう。社会の出来事は、謂《い》わば永遠の形の下《もと》に見た鳥瞰図《ちょうかんず》になって、新聞を飾るだろう。同じ問題でも、今まで焼芋の皮の燻《くすぶ》る、縁《ふち》の焦げた火鉢の傍《そば》で考えた事が発表せられた代りに、こん度は温室で咲かせた熱帯の花の蔭から、雪を硝子《ガラス》越しに見る窓の下で考えた事が発表せられるだろう。それは結構である。そんな新聞もあっても好《い》い。しかし社員の中《うち》で只一人華族会館のシャンパニエエの杯《さかずき》を嘗《な》めなかった路花はどうしても車の第三輪になるのである。それなのに「見てい給え、今に僕なんぞの新聞は華族新聞になるんだ」と、平気な顔をして云っている。
 純一は著作の邪
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