魔なぞをしてはならないと思ったので、そこそこに暇乞《いとまごい》をして、富坂上の下宿屋を出た。そして帰り道に考えた。東京新聞が大村の云う小さいクリクを形づくって、不公平な批評をしていたのは、局外から見ても、余り感心出来なかった。しかしとにかく主張があった。特色があった。推し測って見るに、新聞社が路花を推戴《すいたい》したことがあるのではあるまいから、路花の思想が自然に全体の調子を支配する様になって、あの特色は生じたのだろう。そこで社主が代って、あの調子を社会を荼毒《とどく》するものだと認めたとしよう。一般の読者を未丁年者として見る目で、そう認めたのは致し方がない。只驚くのは新聞をアカデミックにしてその弊を除こうとした事である。それでは反動に過ぎない。抑圧だと云っても好《い》い。なぜ思想の自由を或る程度まで許して置いて、そして矯正しようとはしないのだろう。路花の立場から見れば、ここには不平がなくてはならない。この不平は赫《かく》とした赤い怒りになって現れるか、そうでないなら、緑青《ろくしょう》のような皮肉になって現れねばならない。路花はどんな物を書くだろうか。いやいや。やはりいつもの何物に出逢っても屈折しないラジウム光線のような文章で、何もかも自己とは交渉のないように書いて、「ああ、わたくしの頭にはなんにもない」なんぞと云うだろう。今の文壇は、愚痴というものの外に、力の反応《はんおう》を見ることの出来ない程に萎弱《いじゃく》しているのだが、これなら何等の反感をも起さずに済む筈《はず》だ。純一はこんな事を考えながら指《さす》が谷《や》の町を歩いて帰った。

     十四

 十二月は残り少なになった。前月の中頃から、四十日《しじゅうにち》程の間雨が降ったのを記憶しない。純一は散歩もし飽きて、自然に内にいて本を読んでいる日が多くなる。二三日続くと、頭が重く、気分が悪くなって、食機《しょくき》が振わなくなる。そういう時には、三崎町《さんさきちょう》の町屋が店をしまって、板戸を卸す頃から、急に思い立って、人気《ひとけ》のない上野の山を、薩摩下駄をがら附かせて歩いたこともある。
 或るそういう晩の事であった。両大師の横を曲がって石燈籠《いしどうろう》の沢山並んでいる処を通って、ふと鶯坂《うぐいすざか》の上に出た。丁度青森線の上りの終列車が丘の下を通る時であった。死せる都会のはずれに、吉原の電灯が幻のように、霧の海に漂っている。暫く立って眺めているうちに、公園で十一時の鐘が鳴った。巡査が一人根岸から上がって来て、純一を角灯で照して見て、暫く立ち留まって見ていて、お霊屋《たまや》の方へ行った。
 純一の視線は根岸の人家の黒い屋根の上を辿《たど》っている。坂の両側の灌木《かんぼく》と、お霊屋の背後の森とに遮られて、根岸の大部分は見えないのである。
 坂井夫人の家はどの辺だろうと、ふと思った。そして温い血の波が湧《わ》き立って、冷たくなっている耳や鼻や、手足の尖《さき》までも漲《みなぎ》り渡るような心持がした。
 坂井夫人を尋ねてから、もう二十日ばかりになっている。純一は内に据わっていても、外を歩いていても、おりおり空想がその人の俤《おもかげ》を想い浮べさせることがある。これまで対象のない係恋《あこがれ》に襲われたことのあるに比べて見れば、この空想の戯れは度数も多く光彩も濃いので、純一はこれまで知らなかった苦痛を感ずるのである。
 身の周囲《まわり》を立ち籠《こ》めている霧が、領《えり》や袖や口から潜《もぐ》り込むかと思うような晩であるのに、純一の肌は燃えている。恐ろしい「盲目なる策励」が理性の光を覆うて、純一にこんな事を思わせる。これから一走りにあの家へ行って、門のベルを鳴らして見たい。己《おれ》がこの丘の上に立ってこう思っているように、あの奥さんもほの暗い電燈の下の白いcourte−pointe《クウルト ポアント》の中で、己を思っているのではあるまいか。
 純一は忽《たちま》ち肌の粟立《あわだ》つのを感じた。そしてひどく刹那《せつな》の妄想《もうそう》を慙《は》じた。
 馬鹿な。己はどこまでおめでたい人間だろう。芝居で只一度逢って、只一度尋ねて行っただけの己ではないか。己が幾人かの中の一人に過ぎないということは、殆ど問うことを須《ま》たない。己の方で遠慮をしていれば、向うからは一枚の葉書もよこさない。二十日ばかりの長い間、己は待たない、待ちたくないと思いながら、意志に背いて便《たより》を待っていた。そしてそれが徒《いたず》ら事であったではないか。純一は足元にあった小石を下駄で蹴飛《けと》ばした。石は灌木の間を穿《うが》って崖《がけ》の下へ墜《お》ちた。純一はステッキを揮《ふ》って帰途に就いた。
     *     *     *
 純一
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