うし、娼妓の型の女を対象にしたら、それは堕落ではないでしょうか」
「そうです。だから恋愛の希望を前途に持っているという君なんぞの為めには、ワイニンゲルの論は残酷を極めているのです。女には恋愛というようなものはない。娼妓の型には色欲がある。母の型には繁殖の欲があるに過ぎない。恋愛の対象というものは、凡《すべ》て男子の構成した幻影だというのです。それがワイニンゲルの為めには非常に真面目な話で、当人が自殺したのも、その辺に根ざしているらしいのです」
「なる程」と云った純一は、暫く詞もなかった。坂井の奥さんが娼妓の型の代表者として、彼れの想像の上に浮ぶ。※[#「※」は「厭+食」、第4水準2−92−73、101−11]《あ》くことを知らないpolype《ポリイプ》の腕に、自分は無意味の餌《え》になって抱《いだ》かれていたような心持がして、堪えられない程不愉快になって来るのである。そしてこう云った。
「そんな事を考えると、厭世《えんせい》的になってしまいますね」
「そうさ。ワイニンゲルなんぞの足跡《そくせき》を踏んで行《い》けば、厭世は免れないね。しかし恋愛なんという概念のうちには人生の酔《えい》を含んでいる。Ivresse《イヴレス》を含んでいる、鴉片《アヘン》やHaschisch《アッシシュ》のようなものだ。鴉片は支那までが表向禁じているが、人類が酒を飲まなくなるかは疑問だね。Dionisos《ジオニソス》はApollon《アポルロン》の制裁を受けたって、滅びてしまうものではあるまい。問題は制裁|奈何《いかん》にある。どう縛られるか、どう囚われるかにあると云っても好かろう」
 二人は氷川《ひかわ》神社の拝殿近く来た。右側の茶屋から声を掛けられたので、殆ど反射的に避けて、社《やしろ》の背後の方へ曲がった。
 落葉の散らばっている小道の向うに、木立に囲まれた離れのような家が見える。三味線の音はそこからする。四五人のとよめき笑う声と女の歌う声とが交って来る。
 音締《ねじめ》の悪い三味線の伴奏で、聴くに堪えない卑しい歌を歌っている。丁度日が少し傾いて来たので、幸に障子が締め切ってあって、この放たれた男女の一群《ひとむれ》と顔を合せずに済んだ。二人は又この離れを避けた。
 社の東側の沼の畔《ほとり》に出た。葦簀《よしず》を立て繞《めぐ》らして、店をしまっている掛茶屋がある。
「好《い》い処ですね」と、覚えず純一が云った。
「好かろう」と、大村は無邪気に得意らしく云って、腰掛けに掛けた。
 大村が紙巻煙草に火を附ける間、純一は沼の上を見わたしている。僅か二三間先きに、枯葦《かれあし》の茂みを抜いて立っている杙《くい》があって、それに鴉が一羽《いちわ》止まっている。こっちを向いて、黒い円い目で見て、紫色の反射のある羽をちょいと動かしたが、又居ずまいを直して逃げずにいる。
 大村が突然云った。「まだ何も書いて見ないのですか」
「ええ。蜚《と》ばず鳴かずです」と、純一は鴉を見ながら答えた。
「好く文学者の成功の事を、大いなるcoup《クウ》をしたと云うが、あれは采《さい》を擲《なげう》つので、つまり芸術を賭博《とばく》に比したのだね。それは流行作者、売れる作者になるにはそういう偶然の結果もあろうが、censure《サンシュウル》問題は別として、今のように思想を発表する道の開けている時代では、価値のある作が具眼者に認められずにしまうという虞れは先ず無いね。だから急ぐには及ばないが、遠慮するにも及ばない。起《た》とうと思えば、いつでも起てるのだからね」
「そうでしょうか」
「僕なんぞはそういう問題では、非常に楽天的に考えていますよ。どんなに手広に新聞雑誌を利用しているclique《クリク》でも、有力な分子はいつの間にか自立してしまうから、党派そのものは脱殻《ぬけがら》になってしまって、自滅せずにはいられないのです。だからそんなものに、縋《すが》ったって頼もしくはないし、そんなものに黙殺せられたって、悪く言われたって阻喪するには及ばない。無論そんな仲間に這入るなんという必要はないのです」
「しかし相談相手になって貰われる先輩というようなものは欲しいと思うのですが」
「そりゃああっても好《い》いでしょうが、縁のある人が出合うのだから、強いて求めるわけには行《い》かない。紹介状やなんぞで、役に立つ交際が成り立つことは先ず無いからね」
 こんな話をしているうちに、三味線や歌が聞え已《や》んだので、純一は時計を見た。
「もう五時を大分過ぎています」
「道理で少し寒くなって来た」と云って、大村が立った。
 鴉が一声啼いて森の方へ飛んで行った。その行方を見送れば、いつの間にか鼠色の薄い雲が空を掩《おお》うていた。
 二人は暫く落葉の道を歩いて上りの汽車に乗った。

 
前へ 次へ
全71ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング