舎から出たばかりで、なんにも遣《や》っていないのです」
 純一はこう云って、名刺を学生にわたした。学生は、「名刺があったかしらん」とつぶやきながら隠しを探って、小さい名刺を出して純一にくれた。大村荘之助としてある。大村はこう云った。
「僕は医者になるのだが、文学好だもんだから、折々出掛けて来ますよ。君は外国語は何を遣っています」
「フランスを少しばかり習いました」
「何を読んでいます」
「フロオベル、モオパッサン、それから、ブウルジェエ、ベルジックのマアテルリンクなんぞを些《すこし》ばかり読みました」
「らくに読めますか」
「ええ。マアテルリンクなんぞは、脚本は分りますが、論文はむつかしくて困ります」
「どうむつかしいのです」
「なんだか要点が掴《つか》まえにくいようで」
「そうでしょう」
 大村の顔を、微《かす》かな微笑が掠《かす》めて過ぎた。嘲《あざけり》の分子なんぞは少しも含まない、温い微笑である。感激し易い青年の心は、何故《なにゆえ》ともなくこの人を頼もしく思った。作品を読んで慕って来た大石に逢ったときは、その人が自分の想像に画《えが》いていた人と違ってはいないのに、どうも険しい巌《いわ》の前に立ったような心持がしてならなかった。大村という人は何をしている人だか知らない。医科の学生なら、独逸《ドイツ》は出来るだろう。それにフランスも出来るらしい。只これだけの推察が、咄嗟《とっさ》の間に出来たばかりであるのに、なんだか力になって貰われそうな気がする。ニイチェという人は、「己《おれ》は流《ながれ》の岸の欄干だ」と云ったそうだが、どうもこの大村が自分の手で掴えることの出来る欄干ではあるまいかと思われてならない。そして純一のこう思う心はその大きい瞳《ひとみ》を透《とお》して大村の心にも通じた。
 この時梯子の下で、「諸君、平田先生が見えました」と呼ぶ声がした。平田というのは拊石の氏《うじ》なのである。

     七

 幹事らしい男に案内せられて、梯子を登って来る、拊石という人を、どんな人かと思って、純一は見ていた。
 少し古びた黒の羅紗服《らしゃふく》を着ている。背丈は中位である。顔の色は蒼いが、アイロニイを帯びた快活な表情である。世間では鴎村と同じように、継子《ままこ》根性のねじくれた人物だと云っているが、どうもそうは見えない。少し赤み掛かった、たっぷりある八
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