まっている。そんな事を敢《あえ》てする人はおめでたいかも知れない。厭味なのかも知れない。それとも実際|無頓着《むとんちゃく》に自己を客観《かくかん》しているのかも知れない。それを心理的に判断することは、性格を知らないでは出来ない筈だと思った。
 瀬戸が座敷の奥の方から、「小泉君」と呼んだ。純一がその方を見ると、瀬戸はもう初めの所にはいない。隅の方に、子供の手習机を据えて、その上に書類を散らかしている男と、火鉢を隔てて、向き合っているのである。
 席を起ってそこへ行って見れば、机の上には一円札やら小さい銀貨やらが、書類の側に置いてある。純一はそこで七十銭の会費を払った。
「席料と弁当代だよ」瀬戸は純一にこう云って聞せながら、机を構えている男に、「今日は菓子は出ないのかい」と云った。
 まだ返辞をしないうちに、例の赭顔の女中が大きい盆に一人前《ひとりまえ》ずつに包んだ餅菓子を山盛にして持って来て銘々に配り始めた。
 配ってしまうと、大きい土瓶に番茶を入れたのを、所々に置いて行《ゆ》く。
 純一が受け取った菓子を手に持ったまま、会計をしている人の机の傍にいると、「おい、瀬戸」と呼び掛けられて、瀬戸は忙がしそうに立って行った。呼んだのは、初め這入ったとき瀬戸が話をしていた男である。髪を長く伸《のば》した、色の蒼い男である。又何か小声で熱心に話し出した。
 人が次第に殖えて来て、それが必ずこの机の傍に来るので、純一は元の席に帰った。余り上《あが》り口《ぐち》に近いので、自分の敷いていた座布団だけはまだ人に占領せられずにあったのである。そこで据わろうと思うと半分ばかり飲みさしてあった茶碗をひっくり返した。純一は少し慌てて、「これは失敬しました」と云って袂《たもと》からハンカチイフを出して拭いた。
「畳が驚くでしょう」
 こう云って茶碗の主は、純一が銀座のどこやらの店で、ふいと一番善いのをと云って買った、フランドルのバチストで拵《こしら》えたハンカチイフに目を注《つ》けている。この男は最初から柱に倚《よ》り掛かって、黙って人の話を聞きながら、折々純一の顔を見ていたのである。大学の制服の、襟にMの字の附いたのを着た、体格の立派な男である。
 一寸《ちょっと》調子の変った返事なので、畳よりは純一の方が驚いて顔を見ていると、「君も画家ですか」と云った。「いえ。そうではありません。まだ田
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