るという風である。それからこんな事を言った。今日の午後は暇なので、純一がどこか行きたい処でもあるなら、一しょに行っても好《い》い。上野の展覧会へ行っても好い。浅草公園へ散歩に行っても好い。今一つは自分の折々行く青年|倶楽部《クラブ》のようなものがある。会員は多くは未来の文士というような連中で、それに美術家が二三人加わっている。極《ごく》真面目な会で、名家を頼んで話をして貰う事になっている。今日は拊石《ふせき》が来る。路花なんぞとは流派が違うが、なんにしろ大家の事だから、いつもより盛んだろうと思うというのである。
 純一は画なんぞを見るには、分かっても分からなくても、人と一しょに見るのが嫌《きらい》である。浅草公園の昨今の様子は、ちょいちょい新聞に出る出来事から推し測って見ても、わざわざ往って見る気にはなられない。拊石という人は流行に遅れたようではあるが、とにかく小説家中で一番学問があるそうだ。どんな人か顔を見て置こうと思った。そこで倶楽部へ連れて行って貰うことにした。
 二人は初音町を出て、上野の山をぶらぶら通り抜けた。博物館の前にも、展覧会の前にも、馬車が幾つも停めてある。精養軒の東照宮の方に近い入口の前には、立派な自動車が一台ある。瀬戸が云った。
「汽車はタアナアがかいたので画になったが、まだ自動車の名画というものは聞かないね」
「そうかねえ。文章にはもう大分あるようだが」
「旨《うま》く書いた奴があるかね」
「小説にも脚本にも沢山書いてあるのだが、只使ってあるというだけのようだ。旨く書いたのはやっぱりマアテルリンクの小品位のものだろう」
「ふん。一体自動車というものは幾ら位するだろう」
「五六千円から、少し好《い》いのは一万円以上だというじゃあないか」
「それじゃあ、僕なんぞは一生画をかいても、自動車は買えそうもない」
 瀬戸は火の消えた朝日を、人のぞろぞろ歩いている足元へ無遠慮に投げて、苦笑をした。笑うとひどく醜くなる顔である。
 広小路に出た。国旗をぶっちがえにして立てた電車が幾台も来るが、皆満員である。瀬戸が無理に人を押し分けて乗るので、純一も為方なしに附いて乗った。
 須田町で乗り換えて、錦町で降りた。横町へ曲って、赤煉瓦の神田区役所の向いの処に来ると、瀬戸が立ち留まった。
 この辺には木造のけちな家ばかり並んでいる。その一軒の庇《ひさし》に、好く本屋
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