目を思い出させた。純一は先の日にちらと見たばかりで、その後この娘の事を一度も思い出さずにいたが、今又ふいとその顔を見て、いつの間にか余程親しくなっているような心持がした。意識の閾《しきい》の下を、この娘の影が往来していたのかも知れない。婆あさんはこう云った。
「おや、いらっしゃいまし。安《やす》は団子坂まで買物に参りましたが、もう直《じき》に帰って参りましょう。まあ一寸《ちょっと》こちらへいらっしゃいまし」
「往《い》っても好くって」
「ええええ。あちらから廻っていらっしゃいまし」
少女の頭は萩の茂みの蔭に隠れた。婆あさんは純一に、少女が中沢という銀行頭取の娘で、近所の別荘にいるということ、娵の安がもと別荘で小間使をしていて娘と仲好《なかよし》だということを話した。
その隙《ひま》に植木屋の勝手の方へ廻ったお雪さんは、飛石伝いに離れの前に来た。中沢の娘はお雪さんというのである。
婆あさんが、「この方が今度越していらっしゃった小泉さんという方でございます」というと、お雪さんは黙ってお辞儀をして、純一の顔をじいっと見て立っている。着物も羽織もくすんだ色の銘撰《めいせん》であるが、長い袖の八口《やつくち》から緋縮緬《ひぢりめん》の襦袢《じゅばん》の袖が飜《こぼ》れ出ている。
飲み掛けた茶を下に置いて、これも黙ってお辞儀をした純一の顔は赤くなったが、お雪さんの方は却《かえ》って平気である。そして稍々《やや》身を反らせているかと思われる位に、真直に立っている。純一はそれを見て、何だか人に逼《せま》るような、戦《たたかい》を挑むような態度だと感じたのである。
純一は何とか云わなくてはならないと思ったが、どうも詞《ことば》が見付からなかった。そして茶碗を取り上げて、茶を一口に飲んだ。婆あさんが詞を挟んだ。
「お嬢様は好く画を見にいらっしゃいましたが、小泉さんは御本をお読みなさるのですから、折々いらっしゃって御本のお話をお聞きなさいますと宜しゅうございます。御本のお話はお好きでございましょう」
「ええ」
純一は、「僕は本は余り読みません」と云った。言って了《しま》うと自分で、まあ、何と云う馬鹿気た事を言ったものだろうと思った。そしてお雪さんの感情を害しはしなかったかと思って、気色《けしき》を伺った。しかしお雪さんは相変らず口元に微笑を湛《たた》えているのである。
その
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