桝宦sけんそう》の中《うち》に時間が来て、誰彼《たれかれ》となくぽつぽつ席を立ち始めた。クレエムを食ったfemme omineuse《ファム オミニョオズ》もこの時棒立ちに立って、蝙蝠傘を体に添えるようにして持って、出て行《ゆ》く。純一の所へは、駅夫が切符を持って催促に来た。
 プラットフォオムはだいぶ雑※[#「※」は「「しんにゅう」+「罘」の「不」を、「|」を挟んで上下に「ハ」を二つ並べたような字」、第4水準2−89−93、182−6]《ざっとう》していたが、純一の乗った二等室は、駅夫の世話にならずに、跡から這入って来た客さえ、坐席に困らない位であった。向側《むこうがわ》に細君を連れて腰を掛けている男が、「却《かえっ》て一等の方が籠《こ》んでいるよ」と、細君に話していた。
 汽車が動き出してから、純一は革包を開けて、風炉敷の中を捜して、本を一冊取り出した。青い鳥と同じ体裁の青表紙で、Henry Bernstein《アンリイ ベルンスタイン》のLe voleur《ル ヴォリヨオル》である。つまらない物と云うことは知っていながら、俗受けのする脚本の、ドラマらしいよりは寧《むし》ろ演劇らしい処を、参考に見て置こうと思って取り寄せて、そのまま読まずに置いたのであった。
 象牙《ぞうげ》の紙切り小刀《こがたな》で、初めの方を少し切って、表題や人物の書いてある処を飜《ひるがえ》して、第一幕の対話を読んでいる。気の利いた、軽い、唯骨折らずに、筋を運ばせて行《ゆ》くだけの対話だと云うことが、直ぐに分かる。退屈もしないが、興味をも感じない。
 二三ペエジ読むと、目が懈《だる》くなって来た。明りが悪いのに、黄いろを帯びた紙に、小さい活字で印刷してある、ファスケル版の本が、汽車の振動に連れて、目の前でちらちらしているのだから堪《た》まらない。大村が活動写真は目に毒だと云ったことなどを思い出す。お負《まけ》に隣席の商人らしい風をした男が、無遠慮に横から覗《のぞ》くのも気になる。
 読みさした処に、指を一本挟んで閉じた本を、膝の上に載せたまま、純一は暫く向いの窓に目を移している。汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する。闇のうちを、折折どこかの燈火《ともしび》が、流星のように背後へ走る。忽《たちま》ち稍大きい明りが窓に迫って来て、車ははためきながら、或る小さい停車|場《ば》を通り
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