的な議論程容易なものは無い。瀬戸でさえあんな議論をするが、明治時代の民間の女と明治時代の芸者とを、簡単な、しかも典型的な表情や姿勢で、現わしている画は少いようだ。明治時代はまだ一人のConstantin Guys《コンスタンタン ギス》を生まないのである。自分も因襲の束縛を受けない目だけをでも持ちたいものだ。今のような事では、芸術家として世に立つ資格がないと、純一は反省した。五時頃に瀬戸が誘いに来た。
「きょうはお安さんがはんべっていないじゃないか」と、厭《いや》な笑顔をして云う。
「めったに来やしない」
純一は生帳面《きちょうめん》な、気の利かない返事をしながら、若し瀬戸の来た時に、お雪さんでもいたら、どんなに冷かされるか、知れたものではないと、気味悪く思った。中沢の奥さんが箪笥《たんす》を買って遣《や》って、内から嫁入をさせたとき、奥さんに美しく化粧をして貰って、別な人のようになって出て来て、いつも友達のようにしていたのが、叮嚀《ていねい》に手を衝《つ》いて暇乞をすると、暫《しばら》く見ていたお雪さんが、おいおい泣き出して皆を困らせたという話や、それから中沢家で、安の事を今でもお娵の安と云っているという話が記憶に浮き出して来た。
支度をして待っていた純一は、瀬戸と一しょに出て、上野公園の冬木立の間を抜けて、広小路で電車に乗った。
須田町で九段両国の電車に乗り換えると、不格好な外套《がいとう》を被《き》て、この頃見馴れない山高帽を被《かぶ》った、酒飲みらしい老人の、腰を掛けている前へ行って、瀬戸がお辞儀をして、「これからお出掛ですか、わたくしも参るところで」と云っている。
瀬戸は純一を直ぐにその老人に紹介した。老人はY県出身の漢学者で、高山先生という人であった。美術学校では、岡倉時代からいろいろな学者に、科外講義に出て貰って、講義録を出版している。高山先生もその講義に来たとき、同県人の生徒だというので、瀬戸は近附きになったのである。
高山先生は宮内庁に勤めている。漢学者で仏典も精《くわ》しい。※[#「※」は「登+おおざと」、第3水準1−92−80、130−15]完白《とうかんぱく》風の篆書《てんしょ》を書く。漢文が出来て、Y県人の碑銘を多く撰《えら》んでいる。純一も名は聞いていたのである。
暫くして電車が透いたので、純一は瀬戸と並んで腰を掛けた。
瀬
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