箱根へ誘致せずには置かないかなと、己は心に思いながら右の手に持っていた帽を被って出た。
 空は青く晴れて、低い処を濃い霧の立ち籠《こ》めている根岸の小道を歩きながら、己は坂井夫人の人と為《な》りを思った。その時己の記憶の表面へ、力強く他の写象を排して浮き出して来たのは、ベルジック文壇の耆宿《きしゅく》Lemonnier《ルモンニエエ》の書いたAude《オオド》が事であった。あの読んだ時に、女というものの一面を余りに誇張して書いたらしく感じたオオドのような女も、坂井夫人が有る以上は、決して無いとは云われない。
 恥辱のペエジはここに尽きる。
 己は拙《まず》い小説のような日記を書いた。

     十六

 十二月二十五日になった。大抵腹を立てるような事はあるまいと、純一の推測していた瀬戸が、一昨日《おとつい》谷中の借家へにこにこして来て、今夜|亀清楼《かめせいろう》である同県人の忘年会に出ろと勧めたのである。純一は旧主人の高縄《たかなわ》の邸《やしき》へ名刺だけは出して置いたが、余り同県人の交際を求めようとはしないでいるので、最初断ろうとした。しかし瀬戸が勧めて已《や》まない。会に出る人のうちに、いろいろな階級、いろいろな職業の人があるのだから、何か書こうとしている純一が為めには、面白い観察をすることが出来るに違いないと云うのである。純一も別に明日《あす》何をしようという用事が極《き》まってもいなかったので、とうとう会釈負けをしてしまった。
 丁度瀬戸のいるところへ、植長の上《かみ》さんのお安《やす》というのが、亭主の誕生日なので拵《こしら》えたと云って赤飯を重箱に入れて、煮染《にしめ》を添えて持って来た。何も馳走がなかったのに、丁度|好《い》いというので、純一は茶碗や皿を持て来て貰うことにして、瀬戸に出すと、上さんは茶を入れてくれた。黒繻子《くろじゅす》の領《えり》の掛かったねんねこ絆纏《ばんてん》を着て、頭を櫛巻《くしまき》にした安の姿を、瀬戸は無遠慮に眺めて、「こんなお上さんの世話を焼いてくれる内があるなら、僕なんぞも借りたいものだ」と云った。「田舎者で一向届きませんが、母がまめに働くので、小泉さんのお世話は好くいたします」と謙遜《けんそん》する。
「なに、届かないものか。紺足袋を穿《は》いている処を見ても、稼人《かせぎにん》だということは分かる」と云う。

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