襲はれた。頭が覚えず前屈みになつて、水がごぼ/\と口に流れ込むのである。
 此時ドルフの目に水を穿《うが》つて来る松明の光が映つた。ドルフは最後の努力をして、自分がやつと貪婪《どんらん》な鮫の※[#「左は月、右は咢」、第3水準1−90−51、155−上−8]《あぎと》から奪ひ返した獲ものを、跡の方に引き摩つて浮いた。ドルフはやう/\の事で呼吸をすることが出来た。
 岸の上の群は騒ぎ立つた。「ドルフしつかりしろ」と口々に叫んだ。
 数人《すにん》の船頭は河原の木ぎれを拾ひ集めて、火を焚き附けた。焔は螺旋状によぢれて、暗い空へ立ち升《のぼ》る。
「こつちへ泳ぎ附け、ドルフ、こつちだ。我慢しろ。今一息だ。」大勢の声が涌くが如くに起つた。
 ドルフはやう/\岸に泳ぎ附かうとしてゐる。最後の努力をして波を凌いで、死骸のやうになつた男の体を前へ押し遣るやうにして、泳いでゐる。焚火の赤い光が、燃える油を灌《そゝ》ぐやうに、ドルフの顔と腕とを照して、傍を漂つて来る男の顔にも当つてゐる。
 ドルフはふと傍を漂つてゐる男の顔を見た。そして拳を揮つて一打打つて、水の中に撞き放した。口からは劇怒の叫が発せられた。其男はリイケを辱めて娠《はら》ませた男であつた。ドルフは気の毒なリイケを拾ひ上げて、人に対し、神に対して、正当な女房にして遣つたのである。
 ドルフは其男を撞き放した。併し撞き放されて、頭に波の被《かぶ》さつて来るのを感じた其男は、再び鉄よりも堅くドルフにしがみ附いた。そして二人は恐ろしい黒い水の中に沈んで行かうとする。
 ドルフの心のうちから、かう云ふ叫声が聞える。「死ね。ジヤツク・カルナワツシユ奴。お主とリイケの生む子とは、同じ地を倶に踏むことの出来ない二人だ。」
 併しドルフの心のうちからは、今一つかう云ふ叫声が聞える。「助かれ。ジヤツク・カルナワツシユ奴。己にもお主の母親の頭を斧で割ることは出来ない。」
     ――――――――――――
 グルデンフイツシユの舟の中では、一時間程持つてゐた娑あさんネルラが叫んだ。「おや。あれはドルフがプツゼル婆あさんを連れて帰つたのでせうね。」
 果して桟橋が二人の踏む足にゆらいだ。次いでブリツジを踏む二人の木沓《きぐつ》の音がした。「トビアスのをぢさん。ちよいと明りを見せて下さい。プツゼルをばさんが来ました。」
 二本|点《とも》してあつた蝋燭の一本を、トビアス爺いさんは取つて、風に吹き消されぬやうに、手の平で垣をして、戸をあけた。「こつちへ這入つて下さい。どうぞこちらへ。」
 プツゼル婆あさんが梯を降りる。跡からは若い男が一人附いて来る。
 爺いさんが声を掛けた。「あゝ。プツゼルさんですか。あなたが来て下すつて、リイケは大為合《おほじあは》せです。どうぞお這入下さい。や、御前さん御苦労だつたね。おや。ルカスぢやないか。」
「えゝ。トビアスをぢさん、今晩は。ドルフさんは途中で友達に留められなすつたので、わたしが代りにプツゼルをばさんを連れて来て上げました。」
「それは御苦労だつた。まあ這入つて一杯呑んでから、ドルフのゐる処へ帰りなさるが好い。」
 ネルラ婆あさんが背後《うしろ》から出て来た。「プツゼルをばさん、今晩は。お変りはありませんか。さあ、こゝに椅子があります。どうぞお掛なすつて、火におあたり下さいまし。」
 背の低い、太つたプツゼル婆あさんは云つた。「皆さん、今晩は。ではもうぢきにグルデンフイツシユで洗礼の御馳走がありますのですね。ねえ、リイケさん、これがはじめてのですね。ネルラさんはコオフイイを一杯煮てさへ下されば好いのですよ。それからわたしに上沓《うはぐつ》をお貸なすつて。」
 若い男がリイケに言つた。「わたしは頼まれてプツゼルをばさんを連れて来て上げたのです。ドルフさんを途中で友達が留めて、連れて往つたものですから。なんでもあなたの苦しがつてお出のを、ドルフさんが見るのは好くないから、一杯呑ませて元気を附けて上げると云ふことでした。」
「あゝ。さうですか。皆さん御親切ですわねえ。わたくしもあの人が傍にゐて下さらない方が却つて元気が出ますの。」リイケはかう返事をした。
 トビアスは焼酎を一杯注いでルカスの前に出した。「さあ、これを呑んでおくれ。呑んでしまふと、風を孕《はら》んだ帆よりも早く、御前の脚がお前を皆の所へ持つて往くからな。」
 ルカスは杯を二口に乾した。最初の一口を呑む時には、「皆さんの御健康を祝します」と云つた。二口目には黙つてゐたが、心の中でかう思つた。「これはドルフの健康を祝して呑まう。だがそれは命を取られないでゐた上の事だて。」呑んでしまつて、ルカスは「難有う、さやうなら」と云ひ棄てて帰つた。
 ルカスが帰つた跡で、炉の上で湯が歌を歌ひ出した。そして部屋一ぱいにコオフイイの好い匂がして来た。ネルラ婆あさんがコオフイイの臼を膝頭の間に挾んで、黒いコオフイイ豆を磨りつぶしてゐるからである。
 プツゼル婆あさんは黒い大外套の襟に附いてゐる、真鍮のホオクを脱《はづ》した。そして嚢の中から目金入と編みさしの沓足袋《くつたび》とを取り出した。さて鼻柱の上に目金を載せて、編み掛けた所に編鍼を插して、ゆたかに炉の傍に陣取つた。婆あさんは編物をしながら、折々目金の縁の外から、リイケを見てゐる。リイケは不安らしく部屋の内を往つたり来たりして、折々我慢し兼ねてうめき声を出してゐる。
 婆あさんはそんな時往つてリイケの頬つぺたを指で敲いて遣つて、こんな事を言ふ。「しつかりしてお出よ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云ふものは、どの位嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入つた、甘《あま》い、牛乳と卵とのあぶくを食べながら、ワイオリンの好い音《ね》を聞くのださうだが、まあ、それと同じ心持がするのだからね。」
 トビアスはいつも寝台にする、長持のやうな大箱を壁の傍に押し遣つて、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚其上に敷いた。海草の香が部屋の内に漲つた。ネルラが其上に粗末な麻布の、雪のやうに白いのをひろげて、襞の少しもないやうに、丁寧に手の平で撫でた。オランダの鳥の毛布団のやうに軟く、敷心地を好くしようと思ふのである。
 夜なか近くなつた時、プツゼル婆あさんが編物を片附けて、目金を脱《はづ》して、卓の上に置いて、腕組をして、暫く炉の火を見詰めてゐた。それから襁褓《むつき》の支度をした。それから六遍続けて欠伸《あくび》をして、片々の目を瞑《つぶ》つて、片々の目をあけてゐた。
 そのうちリイケが両手の指を組み合せて、叫び出した。「プツゼルをばさん。どうかして下さい。」
「それはね、をばさんもどうもして上げることは出来ません。我慢してゐなさらなくては。」プツゼル婆あさんはかう云つた。
 トビアスが傍で云つた。「もう夜なかだ。料理屋にゐる人達も内へ帰る時だ。」
 リイケは繰り返して云つた。「あゝ。ドルフさん。なぜまだ帰つて下さらないのだらう。」
 ネルラがリイケを慰める積で云つた。「繋《かか》つてゐる舟でも、河岸の家でも、もう段々明りを消してゐます。ドルフも今に帰つて来ませうよ。」
 併しドルフは容易に帰らない。
 夜なかを二時過ぎた時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間|過《た》つた。
「あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。」
 トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の隙《すき》から黒い水の面《おもて》に落ちてゐる明りの外には、町ぢゆうに火の光が見えなくなつてゐる。遠い礼拝堂で十五分毎に打つ鐘が、銀《しろがね》の鈴のやうに夜の空気をゆすつて、籠を飛んで出た小鳥の群のやうに、トビアスの耳のまはりに羽搏《はう》つ。次第に又家々に明りが附く。水の面に小さい星のやうにうつる燈火《ともしび》もある。そのうち冷たい、濁つた、薄緑な「暁」が町の狭い巷《こうぢ》を這ひ寄つて来る。
 その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度|飼場《かひば》で羊の子が啼くやうに。
「リイケ。リイケ。」遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人ではない。ドルフである。うつら/\してゐたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪いてゐた。
 トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐつてゐる。プツゼル婆あさんは膝の上に載せてゐた赤ん坊をよく襁褓にくるんで、そつとドルフの手にわたした。ドルフはこは/″\赤ん坊に二三度接吻した。
 ドルフは「リイケ」と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持つて微笑んだ。そして寐入つて、明るくなるまで醒めなかつた。ドルフも跪いた儘、頭をリイケが枕の傍に押し附けて朝までゐた。二人の心臓の鼓動が諧和《かいわ》するやうに、二人の気息も調子を合せてゐたのである。
     ――――――――――――
 或る朝ドルフが町へ往つた。
 葬式の鐘が力一ぱいの響をさせてゐる。其音が丁度難船者の頭の上を鴎が啼いて通るやうに、空気を裂いて聞えわたる。
 長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のやうに、黒布で包んだ贄卓《にへづくゑ》の蝋燭が赫く。
 寺の石段にしやがんでゐる女乞食にドルフが問うた。「町で誰が死んだのかね。」
「お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジヤツク・カルナワツシユと仰やいます。どうぞお冥加に一銭戴かせて下さいまし。」
 ドルフは帽を脱いで寺に這入つた。そして円柱を楯にして、銀の釘を打つた柩の黒いキヤタフアルクの下に隠れるのを見送つた。
「主よ。御身の意志の儘なれ。わたくしがあの男に免したやうに、御身もあの男に免し給へ。」
 会葬者が手向の行列を作つた。ドルフは一人の歌童の手から、燃えてゐる蝋燭を受け取つて、人々の背後《うしろ》に附いて歩き出した。盤の四隅から焔の立ち升つてゐる、高い大燈明の周囲を廻るのである。それが済むと、外《ほか》の会葬|男女《なんによ》の群を離れて、ドルフ一人は暗い片隅に跪いて祈祷した。
「主よ。どうぞわたくしにもお免《ゆるし》下さい。わたくしはあの男を水の中から救ひ出しながら、妻《さい》リイケを辱めた奴だと気が附くや否や、それが厭になつて、復讐をしようと思ひました。わたくしはあの男を撞き放しました。わたくしはあの男に母親のあることを知つてゐました。母親の手に息子を返して遣ることが、わたくしの自由であつたのに、それを撞き放しました。まだ水から引き上げない中に、撞き放しました。主よ。どうぞおゆるし下さい。若し罰を受けなくてはならない事なら、どうぞわたくし一人にそれを受けさせて下さい。」
 祈祷してしまつてドルフは寺を出た。そして心のうちに思つた。「もうこれで世の中に、あのリイケの生んだ子を己の子でないと云ふことの出来るものは、一人もなくなつた。」
 河岸の方から「おい、ドルフ」と呼ぶ声がした。見ればジヤツクを救ひに河に這入つたのを見てゐた仲間達である。皆気の荒い男ではあるが、ドルフが水に潜つた時は、胸が女の胸のやうに跳つた。そしてドルフが無事で陸《おか》に上がつた時、身のめぐりを囲んで、「どうも己達皆を一つにしても、お主《ぬし》一人程の値打はないなあ」と叫んだのである。仲間達は今ドルフに進み近づいて握手して云つた。「おい、ドルフ。まあ、己達はこの儘死んでしまつた所で、度胸のある男を一人は見て死ぬと云ふものだなあ。」
 ドルフは笑つた。「いや。己は又こなひだの晩に生れたリイケの赤ん坊の健康を祝して、お主達と一杯飲まずには、どうしても死ぬることが出来ないのだ。」

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頃日《このごろ》亡くなつたベルジツク文壇の耆宿《きしゆく》カミイユ・ルモンニエエの小説を訳したのは、これが始ではあるまいか。或
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