れから杓子を令《れい》の杖のやうに竪《た》てて、「さあ、皆お掛、御馳走が始まるよ」といつた。
 ドルフとリイケとは行李を引き寄せて腰を掛ける。爺いさんは自分が一つの椅子に掛けて、今一つのを傍へ引き寄せて、それにネルラを掛けさせる。
 婆あさんが卓の上へ、秘密の第二の蒸鍋を運ぶ。白い蒸気がむら/\と立つて、日の当たる雪の消えるやうな音がする。
「シツペさんとこの猫です。わたしにはすぐ分かつた。」ドルフは母親が蓋をあける時かう云つた。
 皆が皿を出す。婆あさんが盛る。ドルフは自分の皿を手元へ引いて、丁寧に嗅いで見て、突然|拳《こぶし》で卓を打つた。「や。リイケ、どうだい。すてきだ。臓物だぜ。」秘密は牛の心臓、肝臓、肺臓なんぞを交煮《まぜに》にしたフランデレン料理であつた。
 爺いさんが云つた。「王様は臓物を葡萄酒のソオスで召し上がるさうだが、ネルラが水で煮るとそれよりも旨い。」
 食べてしまふと、婆あさんが立つて、焼鍋を竈に掛けて、真木をくべて火を掻き起して、第一の蒸鍋の上の切れを取つた。菓子種はふつくりと溲起《しうき》してゐる。すくつて杓子を持ち上げると、長く縷《る》を引く。それを焼鍋の上に落して、しゆうと云はせて焼くのである。
「早く皿をお出し」と云ふと、ドルフが出す。金色《きんしよく》をして、軟く脆い、出来立の菓子が皿に乗る。「先づお父うさんに」と云つて出すと、トビアスが「いや、リイケ食べろ」と云ふ。とう/\リイケが二つに割つて、ドルフと一切づつ食べた。次にトビアスの皿へは大きいのが乗る。トビアスは云つた。「桟橋から水に映つたお天道様を見るやうに光るぜ。」
 菓子種は小川《こがは》のやうに焼鍋の上に流れる。バタが歌ふ。火がつぶやく。そして誰の皿の上にも釣り上げられた魚《うを》のやうに、焼立の菓子が落ちて来る。婆あさんは出来損つたのを二つ取つて置いて、それを皿に載せて、爺いさんの傍に腰を卸して食べた。
 ドルフが起つて、今日菓子屋が店に出してゐるやうな人形の形をした菓子を焼かうとする。最初に出来たのを、リイケの皿に取つて遣ると、まだ熟《よ》く焼けてゐなかつたので、はじけて形がめちや/\になる。それから何遍も焼いて見るうちに、とう/\手足のある人形らしい物になつたので、林檎を顔にして、やつと満足した。
 トビアスはドルフに言ひ附けて、部屋の隅の木屑の底から、オランダ土産の葡萄酒を出させて自分と倅との杯に注ぐ。二|人《にん》は利酒《きゝざけ》の上手らしく首を掉つて味つて見る。
「リイケや。もう二年立つて此祭が来ると、あそこの烟突の附根の下に小さい木沓があるのだ。」かう云つたのはトビアスである。
「さうなると愉快だらうなあ」と、ドルフが云つた。
 リイケの目の中には涙が光つてゐる。其目でドルフの顔を見てささやいた。「ほんとにあなたは好い人ねえ。」
 ドルフはリイケの傍へ摩《す》り寄つて、臂をリイケの腋に廻した。「なに、己は好い人でも悪い人でも無い。只お前を心から可哀く思つてゐる丈さ。」
 リイケも臂をドルフの腋に絡んだ。「わたし、本当にこれまで出逢つた事を考へて見ると、どうして生きてゐられるのだらうと、さう思ふの。」
「過ぎ去つた事は過ぎ去つたのだ」と、ドルフは慰めた。
「でも折々はわたし早く天に往つて、聖母様にあなたのわたしにして下すつた事を申し上げた方が好いかと思ふの。」
「おい。お前が陰気になると、己も陰気になつてしまふ。今夜のやうな晩には、御免だぜ。」
「あら。わたしちよいとでもあなたのお心持を悪くしたくはないわ。そんな事をする程なら、わたしの心の臓の血を上げた方が好いわ。」
「そんならその綺麗な歯を見せて笑つてくれ。」
「わたしなんでもあなたの云ふやうにしてよ。わたしの喜だの悲だのと云ふものは、皆あなたの物なのだから。」
「それで好い。己もお前の為にいろんなものになつて遣る。お前のお父つさん、お前の亭主、それからお前の子供だ。さうだらう。少しはお前の子供のやうな処もあるぜ。今に子供が二人になるのだ。」
 リイケは両手でドルフの頭を挾んで、両方の頬にキスをした。丁度|甘《うま》い物を味ひながらゆつくり啜るやうなキスであつた。「ねえ、あなた。生れたら、矢つ張可哀がつて下さるでせうか。」
 ドルフは誓の手を高く上げた。「天道様が証人だ。己の血を分けた子の様に可哀がつて遣る。」
 炉の火が音を立てゝ燃える。短くなつた蝋燭がぷつ/\云ひながら焔をゆらめかす。今度はネルラ婆あさんが心を切ることを忘れてゐたので、燃えさしが玉のやうに丸くなつて、どろ/\した、黄いろい燭涙が長く垂れた。トビアスの赤くなつた頭が暗い板壁をフオンにしてかつきりと画かれてゐる。其傍にはネルラが動かずに、明りを背にしてすわつてゐる。たまに頭を動かすと、明るい反射が額を照すのである。
「おや、リイケどうした」と、突然ドルフが叫んだ。リイケが蒼くなつて目を瞑《つぶ》つたのである。
「あの、けふなのかも知れません。午過から少し気分が悪かつたのですが、なんだか急にひどく悪くなつて来ました。あの、子供ですが、若しわたしが助からないやうな事があつても、どうぞ可哀がつて遣つて。」
「おつ母さん。どうも胸が裂けるやうで」と、云つた切、ドルフは涙を出して溜息をしてゐる。
 トビアスは倅の肩を敲いた。「しつかりしろ。誰でもかう云ふ時も通らんではならぬのだ。」
 ネルラは涙ぐんでリイケに言つた。「リイケや。おめでたい事なのだから、我慢おしよ。貧乏に暮してゐるものは、お金持より、子供の出来るのが嬉しいのだよ。それに復活祭やニコラウス様の日に生れるのは、別段に難有いのだからね。」
 トビアスが云つた。「おい。ドルフ、お前の方が己よりは足が達者だ。プツゼル婆あさんの所へ走つて往つてくれ。留守の間《ま》は己達がリイケの介抱をして遣るから。」
 ドルフはリイケの体を抱いて暇を告げた。桟橋が急いで行く足の下にゆらめいた。
「もう往つちまやあがつた」と、トビアスが云つた。
     ――――――――――――
 夜が大鳥の翼のやうに市《いち》を掩《おほ》つてゐる。此二三日雪が降つてゐたので、地面の蒼ざめた顔が死人の顔のやうに、ドルフに見えた。丁度干潟を遠く出過ぎてゐた男が、潮の満ちて来るのを見て急いで岸の方へ走るやうに、ドルフは岸に沿うて足の力の及ぶ限り走つてゐる。それでも心臓の鼓動の早さには、足の運びがなか/\及ばない。遠い所の瓦斯《ガス》の街燈の並んでゐるのを霧に透して見れば、蝋燭を持つた葬の行列のやうである。どうしてさう思はれるのだか、ドルフ自身にも分からない。併しなんだかあの光の群の背後《うしろ》に「死」が覗つて居るやうで、ドルフはぞつとした。ふと気が附くと、忍びやかに、足音を立てぬやうに、自分の傍を通り過ぎる、ぎごちない、沈黙の人影がある。「あれは人の末期に暇乞をしに、呼ばれて往くのぢやあるまいか」と、ドルフは思つた。併し間もなく気が附いて思つた。此土地ではニコラウスの夜に、子供が小さい驢馬を拵へて、それに秣《まぐさ》だと云つて枯草や胡蘿蔔《にんじん》を添へて、炉の下に置くことになつてゐる。金のある家では、その枯草や胡蘿蔔の代りに、人形や、口で吹くハルモニカや、おもちやの胡弓や、舟底の台に載せた馬なんぞを、菓子で拵へたのを買ふのである。
「あの影はそれを買ひに往く父親《てゝおや》や母親だらう」と思つたので、ドルフは重荷を卸したやうな気がして、太い息を衝《つ》いた。
 それでも霧の中の瓦斯燈が葬の行列の蝋燭のやうに見えることは、前の通である。その上其火が動き出す。波止場の方で、集まつたり、散つたり、往き違つたり、入り乱れたりする。丸で大きい蛾が飛んでゐるやうである。「どうも己は気が変になつたのぢやないか知らん。あの蛾《てふちよ》は、あれは己の頭にゐるのだらう」と、ドルフは思つた。
 忽ち人声が耳に入つた。岸近く飛びかふのは松明《たいまつ》である。その赤い焔を風が赤旗のやうにゆるがせてゐる。ちらつく火影《ほかげ》にすかして、ドルフが岸を見ると、大勢の人が慌だしげな様子をして岸に立つて何かの合図をしてゐる。中には真つ黒に流れてゐる河水を、俯して見てゐるものもある。街燈は動きはしなかつたが、人の馳せ違ふのと、松明が入り乱れて見えるのとで、街燈も動くやうに見えたのだと、ドルフは悟つた。
 忽ち叫んだものがある。「ドルフ・イエツフエルスを呼んで来い。あいつでなくては此|為事《しごと》は所詮出来ない。」
「丁度好い。ドルフが来た。」ぢき傍で一人の若者がかう云つた。
 ドルフは此の時やつと集まつてゐる人達を見定めることが出来た。皆友達である。船頭仲間である。劇《はげし》く手真似をして叫びかはす群が忽ちドルフの周囲《まはり》へ寄つて来た。中に干魚《ひもの》のやうな皺の寄つた爺いさんがゐて、ドルフの肩に手を置いた。「ドルフ。一人沈みさうになつてゐるのだ。頼む。早く着物を脱いでくれ。」
 ドルフは俯して暗い水を見た。岸辺の松明を見た。仰いで頭の上にかぶさり掛かつてゐる黒い夜を見た。それから周囲に集まつて居る友達を見た。「済まないが、けふはこらへてくれ。女房のリイケが産をし掛けてゐる。生憎《あいにく》己の命が己の物でなくなつてゐる。」
「さう云ふな。おぬしの外には頼む人が無い。」かう云ひさして爺いさんは水の滴る自分の着物を指さした。「己も子供が三人ある。それでももう二度|潜《もぐ》つて見た。どうも己の手にはをへねえ。」
 ドルフは周囲の友達をずらつと見廻した。「いく地がないなあ。一人も助けにはいるものはないのかい。」
 爺いさんが又ドルフに薄《せま》つた。「ドルフ。お主がはいらんと云へば、死ぬるまでだ、己がもう一遍はいる。」
 川へ松明を向けてゐる人達が叫んだ。「や。又あそこに浮いた。手足が見えた。早くしなくちや。」
 ドルフはいきなり上着をかなぐり棄てた。「好し。己がはいる。その代り誰か一人急いでプツゼル婆あさんの所へ往つて、グルデンフイツシユの桟橋迄あれを案内してくれ。」それから空中に十字を切つて、歯の間で唱へた。「人間のために十字架に死なれた主よ。どうぞ憐をお垂下さい。」
 ドルフは裸で岸に向つて駆け出した。群集《ぐんじゆ》はあぶなさに息を屏《つ》めてゐる。ドルフは瞳を定めて河を見卸した。松明が血を滴らせてゐる陰険な急流である。其時ドルフは「死」と目を見合せたやうな気がした。渦巻き泡立つてゐる水は、譬へば大きな鮫が尾で鞭打つてゐるやうである。
「それ又浮いた」と人々が叫んだ。
「リイケ。勘辨してくれ。」どん底がさつと裂けた。流は牢獄の扉のやうに、ドルフの背の上に鎖された。
 群集の中から三人の男が影のやうに舟にすべり込んで纜《ともづな》を解いた。徐《しづ》かに※[#「左は舟、右は虜」、第4水準2−85−82、154−上−15]を操つて、松明の火を波に障《さは》るやうに低く持つて漕いでゐる。
 能く人を殺すエスコオ川は、永遠なる「時」の瀬の如くに、滔々として流れてゐる。
     ――――――――――――
 ドルフは水面に二度浮かんで、二度共又潜つた。夜の不慥な影の中に、ドルフの腕が動き、其顔が蒼ざめてゐるのが見えた。
 ドルフは氷のやうな水層を蹴て、河のどん底まで沈んで行つたのである。忽ち水に住む霊怪の陰険な係蹄《わな》に掛かつたかと思ふやうに、ドルフは両脚の自由を礙《さまた》げられた。溺死し掛かつてゐる男が両脚に抱き附いたのである。これを振り放さなくては、自分も其男も助からないことが、ドルフに分かつた。両脚は締金《しめがね》で締められたやうになつてゐる。二人の間には激しい格闘が始まつた。そして二つの体は次第に河床の泥に埋まつて行く。死を争ふ怨敵のやうに、二人は打ち合ひ咬み合ひ、引つ掻き合つて、膚《はだへ》を破り血を流す。とう/\ドルフが上になつた。絡み附いてゐた男の手が弛んだ。そして活動の力を失つた体が、ドルフの傍を水のまに/\漂ふことになつた。ドルフもがつかりした。そして危険な弛緩状態に
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