仰やいます。どうぞお冥加に一銭戴かせて下さいまし。」
 ドルフは帽を脱いで寺に這入つた。そして円柱を楯にして、銀の釘を打つた柩の黒いキヤタフアルクの下に隠れるのを見送つた。
「主よ。御身の意志の儘なれ。わたくしがあの男に免したやうに、御身もあの男に免し給へ。」
 会葬者が手向の行列を作つた。ドルフは一人の歌童の手から、燃えてゐる蝋燭を受け取つて、人々の背後《うしろ》に附いて歩き出した。盤の四隅から焔の立ち升つてゐる、高い大燈明の周囲を廻るのである。それが済むと、外《ほか》の会葬|男女《なんによ》の群を離れて、ドルフ一人は暗い片隅に跪いて祈祷した。
「主よ。どうぞわたくしにもお免《ゆるし》下さい。わたくしはあの男を水の中から救ひ出しながら、妻《さい》リイケを辱めた奴だと気が附くや否や、それが厭になつて、復讐をしようと思ひました。わたくしはあの男を撞き放しました。わたくしはあの男に母親のあることを知つてゐました。母親の手に息子を返して遣ることが、わたくしの自由であつたのに、それを撞き放しました。まだ水から引き上げない中に、撞き放しました。主よ。どうぞおゆるし下さい。若し罰を受けなくてはならない事なら、どうぞわたくし一人にそれを受けさせて下さい。」
 祈祷してしまつてドルフは寺を出た。そして心のうちに思つた。「もうこれで世の中に、あのリイケの生んだ子を己の子でないと云ふことの出来るものは、一人もなくなつた。」
 河岸の方から「おい、ドルフ」と呼ぶ声がした。見ればジヤツクを救ひに河に這入つたのを見てゐた仲間達である。皆気の荒い男ではあるが、ドルフが水に潜つた時は、胸が女の胸のやうに跳つた。そしてドルフが無事で陸《おか》に上がつた時、身のめぐりを囲んで、「どうも己達皆を一つにしても、お主《ぬし》一人程の値打はないなあ」と叫んだのである。仲間達は今ドルフに進み近づいて握手して云つた。「おい、ドルフ。まあ、己達はこの儘死んでしまつた所で、度胸のある男を一人は見て死ぬと云ふものだなあ。」
 ドルフは笑つた。「いや。己は又こなひだの晩に生れたリイケの赤ん坊の健康を祝して、お主達と一杯飲まずには、どうしても死ぬることが出来ないのだ。」

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頃日《このごろ》亡くなつたベルジツク文壇の耆宿《きしゆく》カミイユ・ルモンニエエの小説を訳したのは、これが始ではあるまいか。或
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