た時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間|過《た》つた。
「あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。」
 トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の隙《すき》から黒い水の面《おもて》に落ちてゐる明りの外には、町ぢゆうに火の光が見えなくなつてゐる。遠い礼拝堂で十五分毎に打つ鐘が、銀《しろがね》の鈴のやうに夜の空気をゆすつて、籠を飛んで出た小鳥の群のやうに、トビアスの耳のまはりに羽搏《はう》つ。次第に又家々に明りが附く。水の面に小さい星のやうにうつる燈火《ともしび》もある。そのうち冷たい、濁つた、薄緑な「暁」が町の狭い巷《こうぢ》を這ひ寄つて来る。
 その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度|飼場《かひば》で羊の子が啼くやうに。
「リイケ。リイケ。」遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人ではない。ドルフである。うつら/\してゐたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪いてゐた。
 トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐつてゐる。プツゼル婆あさんは膝の上に載せてゐた赤ん坊をよく襁褓にくるんで、そつとドルフの手にわたした。ドルフはこは/″\赤ん坊に二三度接吻した。
 ドルフは「リイケ」と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持つて微笑んだ。そして寐入つて、明るくなるまで醒めなかつた。ドルフも跪いた儘、頭をリイケが枕の傍に押し附けて朝までゐた。二人の心臓の鼓動が諧和《かいわ》するやうに、二人の気息も調子を合せてゐたのである。
     ――――――――――――
 或る朝ドルフが町へ往つた。
 葬式の鐘が力一ぱいの響をさせてゐる。其音が丁度難船者の頭の上を鴎が啼いて通るやうに、空気を裂いて聞えわたる。
 長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のやうに、黒布で包んだ贄卓《にへづくゑ》の蝋燭が赫く。
 寺の石段にしやがんでゐる女乞食にドルフが問うた。「町で誰が死んだのかね。」
「お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジヤツク・カルナワツシユと
前へ 次へ
全16ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング