つた蝋燭の一本を、トビアス爺いさんは取つて、風に吹き消されぬやうに、手の平で垣をして、戸をあけた。「こつちへ這入つて下さい。どうぞこちらへ。」
 プツゼル婆あさんが梯を降りる。跡からは若い男が一人附いて来る。
 爺いさんが声を掛けた。「あゝ。プツゼルさんですか。あなたが来て下すつて、リイケは大為合《おほじあは》せです。どうぞお這入下さい。や、御前さん御苦労だつたね。おや。ルカスぢやないか。」
「えゝ。トビアスをぢさん、今晩は。ドルフさんは途中で友達に留められなすつたので、わたしが代りにプツゼルをばさんを連れて来て上げました。」
「それは御苦労だつた。まあ這入つて一杯呑んでから、ドルフのゐる処へ帰りなさるが好い。」
 ネルラ婆あさんが背後《うしろ》から出て来た。「プツゼルをばさん、今晩は。お変りはありませんか。さあ、こゝに椅子があります。どうぞお掛なすつて、火におあたり下さいまし。」
 背の低い、太つたプツゼル婆あさんは云つた。「皆さん、今晩は。ではもうぢきにグルデンフイツシユで洗礼の御馳走がありますのですね。ねえ、リイケさん、これがはじめてのですね。ネルラさんはコオフイイを一杯煮てさへ下されば好いのですよ。それからわたしに上沓《うはぐつ》をお貸なすつて。」
 若い男がリイケに言つた。「わたしは頼まれてプツゼルをばさんを連れて来て上げたのです。ドルフさんを途中で友達が留めて、連れて往つたものですから。なんでもあなたの苦しがつてお出のを、ドルフさんが見るのは好くないから、一杯呑ませて元気を附けて上げると云ふことでした。」
「あゝ。さうですか。皆さん御親切ですわねえ。わたくしもあの人が傍にゐて下さらない方が却つて元気が出ますの。」リイケはかう返事をした。
 トビアスは焼酎を一杯注いでルカスの前に出した。「さあ、これを呑んでおくれ。呑んでしまふと、風を孕《はら》んだ帆よりも早く、御前の脚がお前を皆の所へ持つて往くからな。」
 ルカスは杯を二口に乾した。最初の一口を呑む時には、「皆さんの御健康を祝します」と云つた。二口目には黙つてゐたが、心の中でかう思つた。「これはドルフの健康を祝して呑まう。だがそれは命を取られないでゐた上の事だて。」呑んでしまつて、ルカスは「難有う、さやうなら」と云ひ棄てて帰つた。
 ルカスが帰つた跡で、炉の上で湯が歌を歌ひ出した。そして部屋一ぱいにコオフ
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