部宗勝の嫡子|東市正宗興《いちのかみむねおき》の表面上の外舅《ぐわいきう》となり、宗勝を贔屓《ひいき》した酒井雅楽頭忠清《さかゐうたのかみたゞきよ》が邸《やしき》での原田甲斐《はらだかひ》の刃傷《にんじやう》事件があつて、将《まさ》に失はんとした本領を安堵《あんど》し、延宝五年に十九歳で綱村と名告《なの》つたのである。暗中の仇敵《きうてき》たる宗勝は、父子の対面に先だつこと四年、延宝七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣《せうけん》のすさびに残した書画には、往々|知過必改《ちくわひつかい》と云ふ印を用ゐた。綱宗の芸能は書画や和歌ばかりではない。蒔絵《まきゑ》を造り、陶器を作り、又刀剣をも鍛《きた》へた。私は此人が政治の上に発揮することの出来なかつた精力を、芸術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに止《とゞ》まらない。綱宗は籠居《ろうきよ》のために意気を挫《くじ》かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた硝子板《がらすいた》四百余枚を嵌《は》めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買つたと云ふことである。その豪
前へ
次へ
全20ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング