、芝浜《しばはま》の屋敷から品川に遷《うつ》つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程《まんなかほど》であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子|亀千代《かめちよ》が家督した。此時綱宗は二十歳、亀千代は僅《わづか》に二歳であつた。堀浚は矢張《やはり》伊達家で継続することになつたので、翌年工事を竣《をは》つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許《もと》へ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薫《かをる》と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居《ちつきよ》して以来、仙台へは往かずに、天和《てんな》三年に四十四歳で剃髪《ていはつ》して嘉心《かしん》と号し、正徳《しやうとく》元年六月六日に七十二歳で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙台へ連れて行かれる筈《はず》がない。
文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、三股《みつまた》で斬つたと云ふ俗説を反駁
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