つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町《あらまち》の仏眼寺《ぶつげんじ》にある、其子孫が椙原氏《すぎのはらうぢ》だと云ふことになつてゐる。
 これは大《おほい》に錯《あやま》つてゐる。伊達綱宗は万治《まんぢ》元年に歿した父|忠宗《たゞむね》の跡《あと》を継いだ。踰《こ》えて三年二月|朔《ついたち》に小石川の堀浚《ほりざらへ》を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋《すぢかへばし》即ち今の万世橋《まんせいばし》から牛込土橋《うしごめどばし》までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺《きちじやうじ》の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今|駒込《こまごめ》にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往来《ゆきき》の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは当時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做《な》され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陥《おとし》れようとしてゐた人達の手伝があつたものと見える。綱宗は不行迹《ふぎやうせき》の廉《かど》を以《もつ》て、七月十三日にに逼塞《ひつそく》を命ぜられて
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