、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤《いきどほ》つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女が席次の争と同じく、原来《ぐわんらい》権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の秕政《ひせい》に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を弾劾《だんがい》することを主とし、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した所以《ゆゑん》である。渡辺は伊達宮内少輔《だてくないせういう》に預けられて絶食して死んだ。
私は此伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧《れいり》で気骨のあるらしい品とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げ
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