かうむ》つたもの百二十人の名を挙げてゐるのを見ても、渡辺等の横暴を察することが出来る。其中で最も際立つて見えるのは、伊東釆女《いとううねめ》が事と、伊達安芸が事とである。伊東采女は、寛文三年に病中国老になつて、間もなく歿した伊東新左衛門の養子で、それが幽閉せられて死ぬることになるのは、席次の争が本であつた。寛文七年に幕府から来た目附を饗応する時、先例は家老、評定役《ひやうぢやうやく》、著座、大番頭《おおばんがしら》、出入司《しゆつにふづかさ》、小姓頭、目附役の順序を以て、幕府の目附に謁し、杯を受けるのであるに、著座と称する家柄の采女が劫《かへ》つて目附役の次に出された。これは渡辺金兵衛等の勧《すゝめ》によつて原田甲斐が取り計らつたのである。伊達安芸は遠田《とほだ》郡を領して涌谷《わくや》に住んでゐたが、其北隣の登米《とよま》郡は伊達式部が領して、これは寺池に住んでゐた。然るに遠田郡の北境|小里《をさと》村と、登米郡|赤生津《あかふづ》村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲つて無事に済ませた。これは寛文五年の事である。次いで七年に又|桃生《ものふ》郡の西南にある式部が領分の飛地と
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