のではあるまいか。
 綱宗の夢寐《むび》の間に想《おもひ》を馳《は》せた亀千代は、万治三年から寛文八年二月まで浜屋敷にゐた。此年の二月の火事に、浜屋敷は愛宕下《あたごした》の上屋敷と共に焼けた。伊達家では上屋敷を廉立《かどた》つた時に限つて使つたものらしく、綱宗の代には上屋敷が桜田にあつて、丁度今の日比谷公園東北隅の所であつたが、綱宗は上使を受ける時などに、浜屋敷から出向いたものである。亀千代は火事に逢つて、麻布|白金台《しろかねだい》に移つた。これは万治元年に桜田を幕府から召上げられた時に賜はつた替地《かへち》である。其時これまで中屋敷と云つてゐた愛宕下を、伊達家では上屋敷にした。それも浜屋敷と共に焼けたのである。それから火事のあつた年の十二月に愛宕下上屋敷の普請が出来て、亀千代はそこへ移つた。これから伊達家では不断《ふだん》上屋敷に住むことになつたのである。
 此間に亀千代は、万治三年八月に二歳で家督し、寛文四年六月には六歳で徳川家綱に謁見し、愛宕下に移つてから、同九年十二月に十一歳で元服して、総次郎|綱基《つなもと》と名告《なの》り、後延宝五年正月に綱村と改名した。
 そして此《
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