から出てゐるのである。

      五

 綱宗が万治三年七月二十六日に品川の屋敷に遷《うつ》つてから、これを端緒として、所謂《いはゆる》仙台騒動が発展して、寛文十一年三月二十七日に、酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が伊達安芸《だてあき》を斬つたと云ふ絶頂まで到達した。それを綱宗は純粋な受動的態度で傍看しなくてはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、寺や百姓家を取り払はせて建て拡げたのである。綱宗は家老一人を附けられて、そこに住んだ。当時|姉婿《あねむこ》花忠茂が密《ひそか》に遣《や》つた手紙に、「御やしき中《うち》忍びにて御ありきはくるしからぬ儀と存じ候」と云つて、丁寧《ていねい》に謹慎を勧めてゐる。邸内を歩くにも忍びに歩かなくてはならぬと云ふ拘束を豪邁な性《さが》を有してゐる壮年の身に受けて、綱宗は穉《をさな》い亀千代の身の上を気遣《きづか》ひ、仙台の政治を憂慮した。その時附けられてゐた家老大町備前は、さしたる人物でなかつたらしいから、綱宗が抑鬱《よくうつ》の情を打明けて語ることを得たのは、初子のみであつただらう。それに事によつたら、品も与《あづか》つた
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